真朱

五条いわく"雰囲気作り"のため、一同は夜になるのを待った。 たった数時間の内にもは眠った。 虎杖は彼女が眠りに落ちる瞬間を初めて見たが、それはまさしく電池切れという表現がぴったりだった。 五条はが寝息を立てると、ちょっと出てくると言い残して外出し、不思議とが起きる頃に戻ってきた。 明るい日陰の部屋は時間の移り変わりと共に日向となって、虎杖はカーテンを隙間なく閉めた。 日陰が戻ってくると、病室はあの情緒ある空間―――薄暗い教室、湿った髪、全身を包む疲労感、呪文のような授業―――を思い起こさせた。 消毒液のような潔白な匂いを塩素のきしみと重ねながら、ベッドの端に身体を預け、少しの間と一緒に眠った。 3人が揃ったタイミングではおしゃべりを楽しんだ。 穏やかな日常のひとこまは、何がきっかけだったか、がファンだという俳優の話から、 彼が主演を務める映画の話へ派生し、虎杖が五条に見せられた映画の話へと続いていった。

「ええ、あんなえっぐいの見たの?」
「俺も見たくて見たわけじゃないスけど」
「修行にはなったでしょ?」
「わあ、鬼畜」

グロテスクな描写がまるでだめらしいが、自身の肩を抱いて五条から距離を取るようなふりをした。

「呪霊のほうがよっぽどグロいのに。なんで苦手なの?」
「グロ映画観に行った次の日に胃腸炎になって死ぬかと思ったから」
「あっはっは!言いがかりじゃん!」

五条は膝を叩いて爆笑した。 病室の小さな丸椅子は、その長身には小さすぎるように思えた。 はムッとして重症をアピールした。

「40℃出たんだよ」
「そりゃ、おちおち寝てられないね、フフッ」
「マジでグロ映画のせいだったん?」

虎杖が尋ねると、は数秒黙ってから言う。

「……鶏のたたきにあたった」
「あっはっはっは!本当に言いがかりじゃん!」

五条がまた爆笑し、危うく小さな椅子ごとひっくり返りそうになった。

「本当にグロ映画見たせいだと思ったの。めっちゃ怖かったから」
「はぁ、ちゃんはピュアだねぇ」
「うるさいな。追い出すよ」

は五条をじっとりと睨みつけたが、五条には全く刺さっていなさそうだった。 それからもおしゃべりは続いたが、とある話の切れ目で五条が立ち上がり、カーテンの向こうへ視線をやる。

「さて、少年少女たち、いい時間になってきたよ」

五条がカーテンに手をかけると、小気味いい音でレールが鳴り、視界が開けた。 蛍光灯の味気ない青白さが夕暮れの橙と混ざり合う。

「屋上へ行こうか」

長い指が天を指す。







長い指がキーホルダーの輪でフラフープをしている。 くるくると遊ばれる鍵にはいかにも事務用品という感じの青い札が付いていて、テプラで作った"屋上"のラベルが貼ってあった。

「普通、屋上って上がれないんじゃねえの?」
「普通じゃないよ。ここ、高専の息がかかってるからね」

指先にふうと息を吹きかける仕草をする。 3人は立ち入り禁止の看板の横を抜け、屋上へ続く階段を登っていた。 少し薄暗い。 階段を登った突き当たり、すりガラスの小窓がついた重そうな鉄製のドアがある。 五条は長い身体をかがめて鍵を開け、ドアを押し開けた。 ぬるい風が弱々しく吹き込む。 1日中太陽に晒され、まだ熱が冷めないコンクリートに降り立つ。

「それじゃ、実験を始めようか」
「実験?」
「うちらモルモットなの?」
「宿儺がどう出るか分からないからね」

虎杖はどきりとした。 自身の内に宿る呪いの王は、今も話を聞いているのだろうか。 虎杖は枷の役割こそ果たせど、これをコントロールできるわけではない。

「先に、の術式について説明しようか。、悠二と手繋いで」
「はーい」

の冷えた手が触れて、虎杖はまたどきりとした。 ここは暑い。じわり、汗ばむ。

の呪力の容量が常人の比じゃないことは、前に説明したね」

虎杖が頷く。 は非術師から漏れた呪力を吸収して蓄えることができる。 睡眠の縛りと引き換えに、その容量に底はない。

の術式は、蓄えた呪力を他人に譲渡することができる。 呪力の消費量は術師によって差が激しいけど、使い切ったらおしまいなのはみんな同じ。 だからいざってときのために大切にされてる。要は人間充電器ってわけ」

それは、呪術界から警戒あるいは敵視されている虎杖とは真逆の待遇。 はいつまでも任務に出られず、有事の際には優先的に守られる代わりに、他の呪術師の役に立つことを求められる。 持って生まれた稀有な体質のために、非術師にも、呪術師にもなりきれない。 自分という外殻ではなく身に宿したものだけを重視される心地。 それはもしかしたら、この場にいる3人ともに通ずる。

「呪力授受の条件は"接触"。これは結び付きを意味するから一瞬触れるだけでは足りなくて、手を繋ぐのが基本。 残念ながら今の悠二は大して呪力を消費してないから、何も感じないだろうけど」

じゃあ手を繋ぐ意味ってあったのだろうか。

「さ、悠二、ここで問題です」
「おす」
「手を握り合うだけでも流れるの呪力、より多く受け取るにはどうしたらいいかな?」

虎杖は顎に手を当て、首を傾げた。

「ヒント!手を握るよりも深く結びつくことだよ」
「……キス?」
「きゃあ、悠二のえっち!」

五条が自身の肩を抱きながら飛び退いた。 やべ、と思った虎杖は、これが正解ならお相手になるはずの異性を横目で伺った。 ふふ、と笑った拍子に、こちらに面したこめかみから頬へと汗が流れていった。

「ま、それも正解っちゃ正解。でも、一番いいのは"血を分つ"こと」

血を分つ、そう言いながら五条は両手の指先同士を合わせて胸の前へ掲げた。 ミステリアスな五条の仕草は儀式のようにも見える。

「互いの指先に傷を付けて合わせる。 の一部を身体に取り込むことで、より深い結び付きが生まれるわけだ。 手の形はかごや檻を表す。鍵を持たない者には邪魔ができない」

鍵とはの血肉を指す。 かごを形作ることで場は一種の領域となるが、外からの干渉を基本的に受けないため、通常の領域とは逆の性質を持つ。

「今日はこれを悠二に試してもらいたいんだ。いいよね、

試す理由が見当たらないが、と疑問を抱く虎杖。 一方、こちらを見て微笑む五条に対し、はすぐさま首を横に振った。 細い手が強張っている。

「やだよ、虎杖の中にいるやつ、怖いもん」
「だいじょぶ、だーいじょぶ!僕がついてるから」

は逃げ出すように一歩後ずさった。 明るい声色と共に五条が胸を軽く叩く。 見つめあう中、落ちゆく陽が顔に翳りを作り、なめらかな頬に橙が差す。 唇がきゅっと結ばれる。 五条が胸に当てていた手で拳を作り、じゃんけんをするように軽く前に出すと、 少しの躊躇いの後、も同じく拳を作ってこつんとぶつけた。 洋画の中の若者のようだった。

「…絶対助けてね」
「任せといて」

五条がポケットから折り畳みのナイフを出した。 はそれを受け取り、開いた刃先をつんつんとなぞる。 一度の嘆息の後、覚悟を決めたようには虎杖の手を持ち上げた。 視線が準備はいいかと問いかけてくるので、頷く。

「…ほんと、どうなっても知らないからね」

諦めた小さな声を、虎杖は上手く拾えなかった。 聞き返す間もなく、刃を押し当てられた指の先に小さな傷が付いた。 ちくっとした痛みが人差し指から中指、薬指、小指と続く。 4本の指に傷を付けたら、今度は自身の指先にも同じようにして、ナイフを五条へ返す。

「手出してて」

虎杖は手のひらを正面に向けて出した。 重力に従って、滲んだ血が指を伝っていく感覚がある。 は人差し指から小指の先を虎杖のそれと合わせ、親指を緩やかに絡めた。 傷口と傷口がぴったりと重なった途端に、血は固く結び付いて指が離れなくなる。

「わ、すげえ」

感嘆の声に、はかごと化した手をじっと見つめながら、柔らかく微笑んだ。 嬉しいのかもしれない。 それはまるで指先に心臓があるようだった。 とっ、とっ、とゆったり脈を打って、身体の中に何かが流れ込んでくる。 穏やかな流れがと共鳴して、心地良くてむずがゆい、感じたことのない不思議な感覚が湧き起こる。 ところが、脈動は5、6回でフッと消えるように途切れてしまった。 の顔を伺う。わずかに首を傾げた、思案する顔。イレギュラーが発生したとすぐに察しがついた。 間もなく指先の脈動は再開した、が、しかし、今度は自分からへと流れ出ていく。 激しく、強く、どくどくと。

「ン!」

パッとが顔を覆った。 指の隙間を伝って滴り落ちる鮮血。鼻血が出ているらしかった。 虎杖が戸惑った、次の瞬間。

「ごふ…ッ」

手ではとても押さえきれない量の鮮血が溢れた。 排水口へ水が流れていくときのような、ごぽ、という音がする。 カッと目を見開いたは苦しげに体を折ったが、虎杖と繋がった手は離れるどころか、張り付いたまま引っ張られるほどだった。 なんだ、なんだ、虎杖は混乱した。

「はいそこまで。悠二、離して」

五条が崩れ落ちそうなを支えた。 虎杖と繋がった方のの腕に手を這わせ、走る痙攣を優しく握りこむ。 虎杖の指先はびくとも動かない。 その間もは何度か咳き込み、その度に血を吐いた。声に焦りが滲む。

「離れない、これっ」
「落ち着いて。思うだけでいい、ゆっくりね」

五条の冷静な声は、虎杖に呼吸を意識させるゆとりをもたらした。 離したい、離れたいと、心から念じた。 するとぴったりくっついていた指先に緩みが生じた。 ゆっくり肘を引く。の傷口から何かを引きずり出したような気持ち悪い感触があった。 しかし虎杖の傷口はうっすら赤いだけで、互いを繋ぐものはもう何もない。

「よしよし、、痛かったね」

五条はまるで子供をあやすようにを抱え、一定のリズムで優しく身体を撫でた。 の目は焦点が合わず、鼻から下、パジャマの胸元、手のひら、サンダルに至るまで血だらけだった。 うっすらと開いた口の端から、あぶく混じりの赤がぬるぬると垂れている。 まるで身体の内側が爆ぜたような。 画面の向こうの世界ではなく、現実に流れる血液は、グロテスクなどという言葉では片付けられない。 そこには本物の痛みと、本物の命がある。 虎杖は自分の手のひらを見た。 掠れたわずかな血の筋が残るそこから、いやらしい笑い声が現れるのではないかと睨みつけた。

「戻っておいで、、息しないと死んじゃうよ」

五条は脱力しきったの身体をゆっくりと横たえ、頭を膝に抱えた。 ぽた、ぽた、血は伝い流れて、コンクリートに染みを作る。 虚ろな瞳は、どこを見ているわけでもない、何を見ているわけでもない。 虎杖は呆然としたまま、動くことができなかった。 現実ではいつまでも、カットの声がかからない。 どのくらいそうしていたのか、夏のぬるい夜風が一同の頬を撫でた。 赤っぽかった西の空は濃色に染まって、一等星だけが広い夜空にぽつんと瞬く。 柄にもなく、どうか、と願ったところで、どくりと空気が脈打って、ひゅっ、と狭く苦しげな呼吸音がした。 我らの眠り姫は、どうにか再び現世で目を覚ました。

「よしよし、、おかえり。もう大丈夫だよ」

五条が一際優しい声で言った。 膝上のの頬を撫でる。 ぼやけた瞳がゆっくりと瞬きをして、次の瞬間にはっと見開かれ、 五条の膝から転がり落ちるように地面に伏せると、その場で嘔吐した。

「…ご……ゲエ…ッ」
「苦しいね、かわいそうに」

五条がの背中をさする。 吐き出したものは胃液にまみれたどす黒い血の塊だった。 ろくに食事を摂っていないの胃は空っぽで、吐き出せるものなどほとんど入っていなかった。 身体を支える力もなく、血で汚れた顔が、髪が、服が、今度は吐瀉物にまみれていく。

「ごめん、僕の考えが浅かった。無理させたね」

五条はの体を持ち上げ、四つ這いの姿勢で支えた。 虎杖と結び付けば、必然的に宿儺とも繋がりを持つ。 そこまでは想定内だったが、まさかたった数秒でここまでとは。 が宿す莫大な呪力は、とこしえを生きる彼にとっても面白いものではないかと思ったのだが。 両面宿儺は女子供をいたぶることを好む。 確実に殺さなかったあたり、宿儺にとってはいたずら程度のことなのかもしれないが、それで死なずに済んだのは運が良かったに過ぎない。 五条は安堵する一方で、可愛い生徒の直感的な恐怖を感じ取れない自分にぞっとした。 最強の名が泣いている。 引き続き細い背中をさする。 またえずく声が聞こえたが、最早何も吐けやしないようだった。 血溜まりの中に、透明な雫がいくつも落ちた。

「悠二も。ごめん」

謝罪の声は遠く、聞こえたのに脳まで届かないような感じがした。 痛い苦しいと全身で叫ぶを前に、虎杖は駆け寄ることも出来なかった。 動けないほど呆然としているのに、申し訳なさと無力さでいっぱいなのに、 受け取った呪力が自分の中で渦を巻いて滾っているのが分かる。 どこまでも走っていけそうなほどに。 この力で腹の中を掻き回せたらいいのに。 わずかでも、こいつに傷を付けられたらいいのに。 なんなんだよ、お前。手をぎゅうと握りしめた。左頬で、ケヒッと下品な笑い声がした。



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