かわいい僕らのラブソング
走れば間に合う距離で、先の信号が点滅を始めた。
背負った大きな荷物を気遣う伏黒は、歩調を変えずに行く。
車が行き交う道路の手前、よいしょと荷物、もとい人間(先輩)を背負い直す。
手に下げたビニール袋がガサガサと鳴る。
彼女の寝息は一定の間隔で首元をくすぐり続けていて、伏黒がひっそりと抱く、淡い淡い恋心を弄ぶ。
肩口に押し当てられた頭を横目で伺って、すぐに目を逸らした。
この無防備さに胸を高鳴らせたりしたら、ちょっと自分を嫌いになりそうだ。
任務終了と同時に、はぱたんと顔から倒れ込んだ。
それを慌てて支えた伏黒の動きは相当間抜けだったろう。
自分を客観視すると時々顔を覆いたくなる。
今だけは冷静でいるよう努めたい。背中に預かる彼女の全てを喜ばないでいたい。
交差点の向こう側から、流行りの曲を流した車高の低い車が迫ってきて、黄色信号を突っ切り2人の前を過ぎて行った。
遠ざかる歌詞。あいしてる、あいしてる、
「あいしてる、なんて」
柔らかく掠れた歌声が続きを紡いだ。
どきっとしてもう一度そちらを見ると、の薄く開いた目がこっちを見ていた。
眠たげな顔、笑っているようにも見えて、ちょっとかわいい。
頬が熱を持つのを感じて正面を向く。
歩行者信号はすでに変わっている。
「いい歌だよね」
一歩踏み出した伏黒の耳元でが呟く。
「そうですね」
この歌は、が伏黒に託した映画のエンドロールで流れた。
上映終了も近付いた夏季休暇の終わり、まばらに埋まった座席、つがいで腰掛けるカップルに混じって、
薄い味の烏龍茶を片手に居眠りもせず真面目に見た。
あなたに聞かせるための感想文を、あれから何度も組み立てている。
は伏黒の肩に頭を押し付けたままでいたが、等間隔の白線を渡り切ったところで、唐突に身体を起こしてよじった。
伏黒は驚いてその足をぎゅうと抱えた。
「ちょっと、危ないですよ」
「もう下ろして」
「足捻ったでしょう」
伏黒は前屈みになり、またよいしょとを持ち上げた。
背丈の割に長い足がゆらゆら揺れた。
裸足の右足首は赤く腫れている。
脱がせたのは伏黒だ。
怪我の様子を見るためだったが、痛むだろう足首にもう一度履かせるのは気が引けたので、そのままにしてある。
靴と靴下は、さっきからガサガサ鳴り続ける手元のビニール袋の中に。
は諦めたか、身体をぴったりとくっつけ、伏黒の首に両腕を回すと前で繋ぎ、肩に顎を乗せた。
頬と頬が触れ合いそうな距離。
実際、自分のものではない髪の毛が首の辺りの薄い皮膚を撫でている。
伏黒は腹の底にぐっと力を込めた。
肌も、心も、くすぐらないで欲しいと思った。
「ごめんね」
柔らかい声が囁く。
「先輩が気付いてなきゃ、やられてた。俺が緩んでたんです」
に、任務に出る許可が下りたのはつい最近のことだ。
何の成果も出していないのに、突然階級が上がった。
意味深ににやつく五条を見るに、彼が手やら根やらを回したことは間違いなかったが、当事者のは大層困惑したことだろう。
退院してすぐ、五条直々に"特訓"と称した任務に連れ回されたと聞く。
その件で真希がいらいらしているのを見た。
パンダ曰く、真希は少々に過保護な節があるらしい。
怪我を負わせたこと、怒られるだろうな。
しばらく沈黙が続いた。
時折車が2人を追い抜いていくと、ヘッドライトに照らし出され、重なってひとつになった歪な影が地面に映る。
ぶうんと過ぎ去る車の後、口を開いたのはだった。
「なんで、私じゃないって分かったの?」
先の任務のことだ。
伏黒の心を見透かしたようにに化けて見せた呪霊。
横たわる姿に一瞬気を取られたが、すぐに玉犬の牙を突き立てた。
伏黒は少し躊躇したが、質問に答えることにした。
「…つま先が開いてたから」
「つま先?」
「先輩、寝てるとき、足のつま先が内に向くので」
本来、仰向けで寝ると人の足は外に開く。
内側を向くのは日頃の姿勢や癖によって身体が歪んでいる証であり、あまり褒められたことではないのだが。
「よく見てるね」
「…まあ」
そりゃ見るだろ好きなんだから。
言葉を封じ込めると身体の内側が火照る。
何度彼女が文字通り野垂れて眠っているのを見たことか。
入学当初から風景のひとつであるその人の、見えにくい位置にあるほくろを、耳たぶに光る小さな石の色を、
必ず内へ閉じる足のつま先を、覚えるくらいに。
満開の桜、夏の青葉を見上げて、あ、と思うように、が眠っているのを見つけては、あ、と意識するようになっていた。
「恵、私のこと好きなの?」
「え」
動揺。なんとか蹴躓かずに済んだ。
「どうでもいい人のことってよく見ないでしょ」
そうなれば残る選択肢は"好き"か"嫌い"の二択になるはずだが。
「嫌いって可能性もありますけど」
「恵が私のこと嫌いなわけないじゃん」
「なんで」
「私が悲しいから」
言うや否や、は両手を高く伸ばして伸びをした。
後ろに重心が移動して、バランスを崩した伏黒はたたらを踏む。
のぼせそうなほど上がっていた体温は急転、空いた背筋がひやりとした。
「ちょっと、危ないって言ってるでしょう」
は笑って、再度伏黒の背中にへばりついた。
ああ、聞き返す隙を失った。
いつもこうだ、伏黒は誰かのペースに呑まれてばかりだ。
嫌われていたら悲しい、好きでいてくれたら嬉しい。
恵が、私のことを、好きでいてくれたら。
この人は俺に好かれることを望んでいる。
別にの恋人になりたいと願っているわけではないが、好きでいることは許されたらしい。
恋って、好きでいるだけでいいんだっけ。
例えこの人に別の恋人ができても、一方通行の想いを寄せるだけで、いいんだっけ。
それで、満たされるんだっけ。
恋って、なんだったっけ。
ああ、呑まれてばかりだ。
「あれ、野薔薇がいる」
が前方を指差したので、伏黒も視線を上げた。
見慣れたシルエットが手を振っている。
補助監督が迎えではなく待ち合わせを望んだ理由が分かった。
現場と現場をはしごしなければならないほどに人手不足は深刻らしい。
「さん!って、怪我!伏黒何してんだコラ!」
真希より先にうるさいのがいた、と思った。
開け放たれた後部座席のドアの前にしゃがんで、シートにを下ろす。
「あーあー、大したことないよ、大丈夫。恵、靴ちょうだい」
「……はい」
騒ぎ立てる釘崎を手で制す。
その手に畳んだ靴下を、続けて靴を手渡す。
痛むだろう足に躊躇なく靴を履かせ、は後部座席の奥へと乗り込んで行った。
もしや本当にあの赤い足首、見た目ほど大したことはなかったのだろうか。
伏黒は小さな溜息を吐いた。釘崎は聞き逃さない。
「なんかあったでしょ」
「…別に」
「顔に出てる」
「…」
釘崎もまた、すたすたと助手席に乗り込んで行った。
いつもなら大好きな先輩の真横を陣取るくせに、気を利かせたつもりか、からかっているのか…
後部座席、の隣に荷物ひとつ分空けて座り、ドアを閉める。
シートベルトを引っ張っている途中で車が動き出した。カチッ。
後ろへ後ろへと流れて行く街灯、尾を引くような明かり。
車内は静かで、走行音だけが低く唸る。
伏黒の耳にだけ届くような、ささやかな歌声。
まるで映画のエンドロールだ。窓の外に目をやりながら、が口ずさむ歌に耳を澄ます。
映画の中の、切ない恋の終わり。
どうか現実は終わらないでと願う。
叶えたいなんて欲張りは言わないから、せめて終わらないでほしいと願う。