恋を知るには

とっ、とっ、とっ。 指先に規則的な振動が伝わってくる。 脈打つ。じっと見ていると、皮膚がかすかに震えている。 心臓の音。全身を血液がめぐる音。"生"を感じる音。 目の前に横たわる身体は、点滴一本を繋がれて、かさつくシーツに横たわっている。 脈拍よりはるかにゆったりと上下する胸。 明るい日陰のような静かな病室で、虎杖はの手首に指を当てている。 背後で静かにドアが開いた。

「おまたせ。どう?」
「どうもこうも…」

五条が開けっ放しにしたドアがゆっくりと閉じて、戸当たりに吸い付くようにして止まった。 どう、と聞かれて再度顔を伺い見るが、は変わらず眠っている。 差し出されたカフェオレの缶を戸惑いながら受け取ると、表面に浮いた水滴が手のひらを濡らした。 五条が虎杖を、が眠る病室へ連れて来たのは、ただの思いつきのように感じられた。 それほど突然だった。 結露したたる缶に口をつけながら、五条がこちらを指差す。 虎杖は握ったままだったの腕を慌てて手放した。 五条は意地悪くにやついて言った。

「別に離せって意味じゃなかったのに」

五条が缶を傾けた。仏の浮かぶ白い喉が上下する。

「寝てる間に意味なく身体触られてたら、良い気しないじゃん」

虎杖は眉を下げた。 相手が女性であるために、余計に悪いことをした気分になった。 あまりにも静かだから、自分の手で鼓動を確かめたくなっただけなのだ。 は先月のうちに入院しており、これまで誰も見舞いに来ていないようだった。 つまり一連の事件を何も知らない。 方々に内緒で存在している虎杖にとって、会うことができる唯一の高専生だった。 病を抱えている訳ではないにしろ、眠り続ける姿はやや病的だったし、少し痩せたように見えた。 治る気配のない注射痕とそこに突き刺さる点滴が、彼女を一層弱々しく見せている。 虎杖は缶を握り直しプルタブに指を掛けた。 爪を切りすぎたか、2回ほど空振りしたあとで、ようやく指先がタブと缶の隙間を捉えた。 口に広がる安さゆえの甘さを味わいながら、の手を見た。 虎杖のそれとは対照的に、爪が長く伸びていることに気が付いた。

「せんせ、爪切りとかないかな」
「えー、どうだろう」

言いながら五条はベッドサイドのテレビ台の引き出しを勝手に開けた。 着替え(主に下着など)が入っていたらどうするのかと、健全な男子高校生は勝手にひやひやしたが、 不健全な大人は顔色ひとつ変えず、化粧品が入っていると思しきポーチのファスナーを開け、中を探りながら言った。

「爪やすりならあったよ」

虎杖はの手を取った。 これは意味なくなどではない、理由あっての接触だと念じた。 の手のひらは少し乾いていて、冷たくて、そして骨張っていた。 やすりを爪先に当て、左右に動かす。削れた爪がはらはらと、真下に構えたゴミ箱へ落ちて行く。 うんともすんとも言わない相手に何かしてやるのは難しいと、虎杖はこのとき初めて気が付いた。 脱力しきった腕は見た目より重く感じられたし、やすりは意外と目が荒い。 誤って皮膚に当てれば傷を付けてしまうだろう。 普段爪切りしか使わない虎杖には、少々難易度の高い作業だった。 なんでこんなこと思い付いちゃったんだろう。 悔やめどもう引き下がれないところまできている。 人差し指の先を撫でて、滑らかさを確かめた。悪くない。

「へえ、悠二は器用だねえ」
「…あんま見られると緊張すんだけど」
「ごめんごめん」

上体を折り曲げて虎杖の手元を覗いた五条が姿勢を正す。 手元に落ちていた影も一緒に遠ざかる。 虎杖は次に中指にやすりを当てた。 指の側面がわずかにふくらんでいる。

「ペンだこがある」
は高専には編入でね。元は有名な進学校」
「へえ」
「塾もカテキョもなし、自力で受かったらしいよ。相当頑張ったんじゃないかな」
「すげえ」

集中するあまり生返事をしてしまったが、五条はさして気にしていないようだった。 また指先を撫でる。が、今度は少し引っ掛かりを感じた。 腰をかがめているのが辛くなってきて、虎杖はの手を宙に保ったまま姿勢を変えた。 と、不揃いな指先が震える。 かすかなその動きを感じた虎杖の視線が、手首、腕、肩とたどって顔に向いたときには、は重たげなまぶたを半分持ち上げていた。

「い…」

言い掛けるが、かさついた喉から出た音は、声にならなかった。 は2回ほど咳払いをすると、虎杖が掴んだ手はそのままに、反対の肘をついてゆっくりと上体を起こした。 五条がベッドサイドに置かれた水のボトルを取り、蓋を開けて手渡す。

「……いま何時?」

喉を潤したは眉間に皺を寄せ、もう一度咳払いをしてから時間を尋ねた。 その声はやはり掠れてざらざらしていて、摩滅したカセットテープのようだった。 祖父がよく聞いていたので、あの古びた音質には覚えがある。 五条がスマホを見ながら答えた時間に、はさらに顔をしかめ、頭をかいた。 ボトルの中の水がじゃぷ、と揺れた。

「24時間寝たわ…」
「身長伸びたかもね」

まだ力の入らない起き抜けの腕からペットボトルを回収すると、五条は自分もひと口飲んでから蓋を閉めた。 あ、間接キス。幼稚な冷やかしが思い浮かんですぐ消える。 が少々不機嫌な声で言う。

「…すっぴんだから来ないでって言ったよね、先生」
はかぁ~わいいよ、いつでも」

ぼうっとやりとりを眺めていた虎杖は、五条のやたらと間延びした"かわいい"を聞いて、改めての顔を見た。 具体的にどこが違うのかは分からずとも、いつもより少しあどけなさを感じる雰囲気は確かに可愛らしかった。 すっぴんかあ。仮面の下を覗き見た気がして、なぜか心臓がどくっと跳ねた。

「ね、悠二」
「えっ、あ、うん」

制服の内側に汗が滲んでいる。 可愛い。そう意識した途端、繋いだままの手と手が触れ合っている部分が急に熱を持ったように感じた。 虎杖は気を取り直し、やすりを再び指先へ当てた。少し削って爪先を撫でると、尖った感触はなめらかになっていた。

「寝てる間に髪切られてたことはあるけど、これは初めて」

は熱を持った虎杖の手を握り返して、軽く持ち上げた。 それだけで心臓が飛び上がった。 可愛いって、こんなにどきどきするんだったっけ。 は無邪気に、五条に繋いだ手を見せるようにした。 

「見て、お姫さまみたい」
「あれでしょ、眠れる森の美女」
「美女じゃないよ」
「じゃあ、美少女だね」
「やめてよ」

本気か冗談か分かりづらい言葉に、はにかむ。 初めて見る顔だった。 今ここに体温計があったら、きっとぐんぐん数値が上がっていくに違いない。 手の中にまで汗をかいていないか心配になってきた。

「良い気しないだろうって、悠二は心配してたんだよ」
「気にしないのに。看護師さんたち、寝てる間に身体とか拭いていくよ」
「こんだけ寝てりゃそうなるよね。24時間は新記録じゃない?」
「入院してからほとんどこんな感じ」

五条と話すは無意識的な親指の腹で、虎杖の指の甲をゆっくり優しく撫でている。 丁度、虎杖がの爪先を撫でたのと同じ調子だ。少しくすぐったい。 薬指の爪を短く整えながら、虎杖は腹の底にぐっと力を入れた。 そうしていないと、どうにかなってしまいそうだった。

「今日、なんで来てくれたの?」
「悠二も今似たような状況だからね、会わせたくて」
「ふうん」

薬指も長さが揃った。小指に触れる。 一際小さな爪は、ひとつ間違えれば折れてしまいそうだった。

の術式、悠二に見せてあげてよ」
「ええ、今?」

聞き流しそうになった虎杖が驚いて顔を上げると、小指の爪とやすりが変に擦れて嫌な音を立てた。 指先から伝わった妙な感覚に、がこちらを見る。 丸く弧を描こうとした小さな爪の先は、歪な形に削れてしまっていた。 にんまりした五条はこちらのトラブルなど意に介さずに続ける。

「そう、手繋いでるし、丁度良いでしょ」

虎杖の手の中にはの手がある。 手を、繋いでいる。 身体中の血管がぶわっと広がったような気がした。 こんな火照りを、奥底から湧き上がるような気持ちを、虎杖は知らなかった。 明るい日陰の部屋は、体に抱えた熱と相まって、夏だな、と思わせる。 可愛い人の可愛い指先は、まだ不揃いなまま。



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