救心

充電器に繋いだスマホがベッドの上で震えたのは、伏黒が本を開いてしばらく経った頃のことだった。 買ったはいいが一向に読む時間が取れなかった、というより読む気になれなかった1冊だ。 呪術師は優しい仕事ではない。 言うまでもなく、色々ある。本を読む気になれない夜だって、もちろん何日もある。 熟成された積読は一度読み出せば導入から引き込まれる語り口で、伏黒は文字から目を逸らさないまま手先でスマホを探り、適当に電話に出た。

「はい、伏黒です」

本に気を取られていたのでろくにディスプレイを確認しなかったことに、応答してから気が付く。

「あ、もしもし。ですけど」

伏黒は半ば反射的に本を閉じてしまった。 そしてはっとした。栞を挟んでいない。 スマホの向こうの声はとんだレアキャラだった。 夏の間はずっと入院しているはずのから、電話。 伏黒はクッションの上で居住まいを正した。 誰も見ていないのになぜか背筋が伸びた。

「珍しいですね、電話なんて」

と連絡を取ることなどほとんどない。 は4級術師。 伏黒と組んだこともなければ、任務に出ることすら少ない彼女とは、連絡を取る必要がそもそもない。

「そうだね。今、時間いいかな」
「はい、どうぞ」
「映画観に行かない?」

伏黒は固まった。 映画?なんで?いつ?一緒に?でも入院してるんじゃ?どうやって?ていうかなんで俺? あらゆるワードが一斉に飛び交うくせに口まで出てこない。 伏黒がどれかひとつ言葉を捕まえる前に、は続けた。

「入院する前に前売り買ったんだけど、退院する頃には上映終わりそうでさ。誰か代わりに観に行ってくれないかなぁと思って」

飛び交っていた言葉たちがぴたりと静止して、そしてあぶくが弾けるように消えた。 が告げた映画のタイトルは、伏黒が今読んでいる本とは似ても似つかない内容であることがはっきりと分かる。 自ら望んで見に行くかと聞かれれば答えはNOだ。 からの電話よりも、はるかに伏黒から縁遠い。 もっと適した人が他にいるだろうに。特に釘崎などは喜びそうだが。

「恵、映画とか観に行く?」
「あんまり行かないですね」
「忙しいもんね」

は寂しさを孕んだような声で少し笑った。 それが伏黒への哀れみなのか、自身があまり任務に出られないことに対してなのかは、分からなかった。

「でも、いいですよ。行きます」
「本当?助かる。ありがとう」
「いえ。いくらですか?」
「あ、お金は別にいいよ。どうだったか教えてくれたら」

伏黒の"興味ない映画なので買い取るだけ買い取って忙しさを理由に見に行かない作戦"は不発に終わった。 感想文の提出を求められれば観ない訳には行かない。 上手いこと逃げられないかと思ったが、ずるいことを考えると大体上手くいかないものだ。

「それで前売り券なんだけど、場所言うから取りに行ってくれない?」
「え?」
「私の部屋にあるから」

動揺した拍子にスマホのお尻からケーブルが抜けた。一瞬ピンと突っ張る感覚のあと、突き放されるように不意に自由になった。

「…鍵はどうするんですか」
「開いてるよ。鍵、壊れてるから、私の部屋」
「はあ」

呆れ返って溜息が出た。 高専は他と比べれば少しは安全な場所ではあるが、返ってややこしいのがウヨウヨしている、そんな中で。 不用心にも程がある。

「部屋までの間に野薔薇に見つかると、ちょっとうるさいかもしれないけど」

ううわ、絶対に見つかりたくない。 伏黒はぞっとした。の部屋と言ってもアパートの一室などではない。 男女できちんと分けられた、不可侵領域、いや寮域。 他者に見つかれば最後、死ぬまで性犯罪者予備軍として扱われる未来が見える。

「真希は何も言わないよ」
「絶対何かは言うでしょ」
「私がちゃんと説明するから」

今でなければ、次はいつ話せるか分からない。 眠り姫に急かされて、伏黒は渋々立ち上がり部屋を出た。 廊下は非常灯こそ付いているが、もう夜も遅く薄暗い。 寮の外に出ても暗さは大して変わらず、名前も知らない小さな虫が外灯に群がっている。 男子寮よりもなんだか明るい気がする女子寮の前で、伏黒は一度足を止めた。 呪霊の巣窟に飛び込むのと同じくらい覚悟が要る。

「着きました」

伏黒の声は、電話の向こうでに話しかける、おそらく看護師の声でかき消された。

「あら、さん。電話はいいけれど、お部屋には早めに戻ってくださいね」
「はーい。ごめんなさい」
「お友達?それともボーイフレンドかしら」
「あはは、友達です」

さん。名前を反芻した。その様子を聞くに親しいのだろう。 入院してしばらく経つし、これからまだひと月以上世話になるのだから当然か。 正しくは後輩だが、それでも友達と断言されたことに、伏黒の心はややささくれた。 少し遠ざかっていたの声が戻ってくる。

「ごめんね、着いた?」
「はい」
「部屋の場所は覚えてる?」
「はい」

以前、狗巻とパンダに置き去りにされて、妙なところで寝こけているに遭遇したことがある。 拾いに戻ってきた狗巻と共に、女子寮までを運搬した際、一度部屋を訪れた。 あのときは真希の案内があったが、今日はひとりだ。 足音をとにかく潜めてたどり着いた年代物のドアの前で、伏黒はスマホに囁いた。

「着きました」
「ドアノブ捻らないで、押せば開くから」

なぜか電話の向こうのまでも囁き声だった。 指示通りドアを押す。鍵どころかドアノブ自体が壊れているらしい。 見た目とは裏腹に滑らかに開くドアをそっと押すと、見覚えのある部屋が姿を表す。 伏黒は神経を擦り減らしながら静かにドアを閉めた。ラッチボルトが掛かる音もなく、ドアはぴたりとあるべき位置へ戻った。

「入りましたけど」

物音を立てないことばかりに気を取られて普通に部屋に入ってしまった。 ひとつ歳上の女子が、ひとりで生活している部屋に。 なぜか女子は総じて男子とは違ういい匂いがする。この部屋もそうだった。 伏黒は心拍数が上がるのを感じた。緊張しているのだろう。 鍵の掛からないドアはつまり、他ふたりの女子に気取られたら終わりだということを暗に示しているのだから。 しかしなるべく鼻で息をしないように努めた。

「どこに入れたかなあ… 引き出しの… うーん、右かな。いや、左かも。まあ、どこかにはあるから開けてみて」

は日々をほとんど寝て過ごしているからか、いい匂いこそすれど部屋は殺風景だった。 淡い色の寝具と、机、椅子。置かれているものは以上だ。 伏黒は木製の机に歩み寄った。床が軋むかもしれないと、足の先まで神経を使って。 いい加減なヒントを元に、右の引き出しを開ける。 ルーズリーフにボールペン、ホチキスなど、文房具が入っているようだった。 左も開けてみると、ギィ!と悲鳴のような音が鳴った。 伏黒は危うくスマホを落としそうになった。

「開かないなら先言っといてくださいよ」
「ああ、そうだった。壊れてんだよね、それも」
「無頓着すぎるでしょ…」

どうにか開いた隙間を覗き込むと、入っているのは化粧品のようだった。 伏黒には姉がいるが派手なタイプではなかったので馴染みが薄い。

「化粧とか、するんですね」
「するよ。わかんなかった?」
「まあ、男なんで」
「私、寝てるし、人より死ぬタイミング選べないから。どうせなら可愛いまま死にたいじゃん」

その声は寂しそうであり、冷たくもあった。 もしかして失礼な質問をしたかもしれない。 が、謝るのも違う気がして、伏黒は前売り券を探す作業に戻った。 卓上のボックスにいくつかファイルが放り込まれている。 手前のものを取り出すと、半透明の表紙に写真やメモなどの紙の切れ端と、映画のタイトルが印刷されたカードが透けていた。

「ありました」
「よかった。じゃあそれはあげるね」
「どうも」
「あ、うそ、やっぱり、映画館で入場券と引き換えたらそれは返してもらっといて」

カード状の前売り券は、主演俳優の顔が中央に配置されたポスターのデザインになっていた。 そこで合点が行く。どうやら、この俳優のファンらしい。 ファイルの中の写真も、出して見ると俳優のブロマイドだった。 どこかで買ったものなのか裏に値段が書いてある。 紙切れは雑誌の切り抜き。 見れば見るほど、伏黒とは真逆のタイプの男性だった。 あれ、なんで俺、いまちょっとがっかりしたんだろう。

「本当に助かるよ。ありがとう」
「いえ」

沈黙が降りた。まだ電話を切りたくないような気がして、何か話そうと話題を探す。

「名前で呼ばれてるんですね」
「ああ、看護師さんね。そうだよ」
「あ」
「看護師さんの中に、って苗字の人がいるんだって」
「そ、うなんですか」
さんって呼ぶと、私もその人も振り返るから、それで」

話の出だしがまたかき消された。 その上急に呂律が言うことを聞かなくなって、舌どころか、声帯までもつれるように言葉が引っかかった。 は無駄な間を作らず返答した。それもそうだ、さっき件の看護師に早く部屋に戻るよう言われていたのだから。 伏黒はどうにかあと三往復ほど会話を続けた。 胃のあたりがぎゅうと締まっていて、意識しなければ息も吸えなくなりそうだった。

「じゃ、映画、よろしくね。感想待ってる」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」

伏黒は言葉少なに別れを告げ、通話が切れる無愛想な音を聞いた。 耳に当てていたスマホを下ろす。叫び出しそうだった。 何が嬉しくて男の面を散々見た感想を述べなければならないのか。 それも、友達かそれ以下だと断言されておいて。 伏黒は口を押さえた。鼻で深く息を吸う。いい匂いがする。しまった、嗅いでしまった。鼻も押さえた。 どうしよう。心臓が早鐘を打つ。 早く帰らなければ、真希と釘崎に気付かれたら終わりだ。 この恋心、気取られたら終わりだ。



inserted by FC2 system