ニューロマンティック
「先輩、どっか行くんですか」
出張にでも行くかのような大きなキャリーケースを引き連れて、食堂でひとり、定食と向き合う。
伏黒は物珍しいその姿につい話しかけてしまった。
はちょうど焼き魚のほぐした身を、それもかなり大きめのやつを口へ入れたところだったので、
片手の指先で口を押さえ、反対の手のひらを顔の前に立てて制止のポーズを取った。
話しかけるタイミングを誤ったな、と思った。
は傍目に見てもわかる大急ぎで魚を飲み込んだが、嚥下の動作があまりに苦しげだったので、伏黒は申し訳なさを募らせた。
一方でその動きが若干、魚を飲む鵜に似ている、と感じたりもした。
鵜のような真っ黒い制服姿のは、水の入ったコップを手に取る。
「入院すんの」
「入院?なんでまた」
喉に小骨でも引っ掛けたか、は険しい顔で水を飲んだ。
「寝てると水分取れないから、夏は危ないんだよね」
人が1日のうちに体から失う水分は2Lを超え、夏の就寝時には発汗によって500mlもの水分を失うと言われる。
寝るに相応しい環境をきちんと整えなければ、眠っている間に重度の熱中症や脱水を引き起こす恐れがある。
普通の人間ですらこう言われるのだから、にとっては一層危険だろう。
確かに、元々痩せ気味の体躯がこの頃は特に細く見える気がする。
「毎年?」
「いや、今年から。去年2回ぐらい、脱水と熱中症で救急車呼ばれてて」
まともな暮らしを圧迫する"睡眠"、この大きな縛りを解いたとき、は持ち得る莫大な呪力のほとんどを、おそらくは失う。
呪力のタンクとも言えるその才は、あらゆる呪術師にとっての予備のバッテリー。つまり、いざというときの生命線だ。
非常事態は総じていつやってくるのか分からないので、勝手に呪力を捨てることは呪術師の総本山が許さない。
肝心の本人は充電が切れれば行き倒れるようにところ構わず眠ってしまうのに、理不尽なものだ。
スマホでも残りの電池量くらい教えてくれる。
「ねえ、小骨ってごはん丸呑みしたらいいんだっけ」
「それ民間療法でしょう。やめたほうがいいですよ」
眉間の皺の原因は、やはり小骨だったらしい。
伏黒の呆れ顔をよそに、は白米を箸でひとつかみして口に入れ、ごくんと噛まずに飲み込んだ。
喉が大きく上下する様子に、鵜がまた脳裏をよぎった。ペリカンでもいいな。いやどちらでも、どうでもよいのだが。
「取れました?」
「全然。なんかひどくなった気がする」
「だから言ったのに」
テーブルの上のスマホが震えだす。
ディスプレイには番号の羅列が表示されており、誰からかかってきているのかは分からない。
はすぐに電話に出た。
「もしもし、伊地知さん?」
番号だけでよく判別できるな、と伏黒は感心した。
自分の電話番号くらいは空で言えるが、他人のものとなると真ん中の4桁あたりで怪しくなってくる。
スマホの向こうからくぐもった声が聞こえる。は相槌を打ちながら箸で焼き魚をばらし、話の隙を見て口に運んだ。少々行儀が悪い。
伏黒はふと気になってスマホを開き、検索欄に"鵜"と入れた。
普段使わない漢字は後ろへ後ろへ追いやられていて、探すのに少し時間がかかった。
調べ終わる頃にはは電話を終え、ついでに焼き魚も骨を残して完食していた。
「恵、甘いもの食べれる?」
カップ入りのオレンジゼリーと、紙製のデザートスプーンがずいと差し出された。
視線に促され、伏黒はここにきてようやくの正面に腰掛けた。
ちょっとした寄り道のつもりだったが、腰を据えたのでいよいよ寄り道ではなくなった。
入れ替わるようにが席を立つ。
「もう時間なくて。戻すのもアレだし、食べて」
「持っていけばいいじゃないですか」
「食べ物の持ち込み、ダメらしいんだよね」
は喉のあたりをさすってまた顔をしかめた。
つっかえた魚の骨は、そこにいることを忘れかけるたび必ず存在を主張してくる。
急いで食べたところで、こんな柔いゼリーではその骨を取ることはできないだろうな、と思った。
片手に空になった食器とトレー、反対の手にキャリーケースの取っ手を持ち、は伏黒に別れを告げる。
「じゃ、よい夏を」
「はい、おだいじに」
は苦笑いを残して歩いて行って、トレーを返却口に置いた後はほぼ駆け足で食堂を出て行った。
すぐ後ろを追いかけるキャリーケースは新しいものなのか、なめらかに床を滑っていたが、出入り口の段差で大きく跳ねた。
傷・第1号誕生の瞬間だ。
つい話しかけたのはまずかったかもしれない。
貴重な起きている時間を、己のために無駄に浪費させたような気がした。
手の中で黄色のラベルに封をされたカップゼリーが汗をかいている。泣いているのかも。
鵜はくちばしが黄色いらしい。しかも結構貪欲に、喉よりもはるかに太い魚を飲み込んだりするらしい。
伏黒が先程手に入れた浅い知識は行き場を失った。
「よう、恵」
「しゃけ」
そこへパンダと狗巻がやってきた。
2人は断りもなく伏黒の正面に座ったが、例え断りを入れられたとして伏黒に拒絶する理由もない。
伏黒が口を開くと喉の奥から、飲んだ魚のように話題が滑り出てきた。
「鵜ってくちばし黄色らしいですよ」
「いきなりだな。なんでまた"ウ"なんか」
パンダが鵜と発音するときに、唇を前に突き出すようにしたので、うっかり笑いそうになった伏黒はまたゼリーに視線を落とした。
「さっき調べたんで」
「すじこ」
「これはさんの食べ残しです」
がゼリーを伏黒に押し付けたように、伏黒もまた浅知恵をパンダと狗巻に押し付けた。
黄色いラベルを剥ぐと安っぽい色のゼリーが姿を現す。
伏黒は紙スプーンでそいつを抉り取って口に運ぶと、なんとなく、丸呑みした。
やっぱり小骨は取れそうにない。