花丸
墨と硯が擦れる軽やかな音が、六畳の一間を占めている。
麻の葉模様を纏った女児は正座をし、指先を黒く染めながら細い指で墨を磨っている。
山南が、武士の命に怪我を負ってから暫く経つ。
人生を捧げて進む道を絶たれ、思い詰めた山南は自然と、内外のあらゆる事柄から距離を置いていた。
そんな折、新選組に現れたのが彼の女児、である。
斎藤が拾った迷子は何の間違いか、新選組で身柄を保護する運びになってしまった。
戦いに身を置く新選組では保護どころか、死なせてしまう可能性の方が高い。
年若い娘の次は七つ前の幼子、新選組は何時の間に慈善集団と化したのか。
「心を落ち着け、墨は硯に対し垂直に当てましょう。力任せではいけませんよ」
山南は力の籠った手元を正しながら言った。
が頷く。彼女の声を聞いた者は未だ居ない。
親元へ帰す手掛かりは、最初に新選組へ連れられた際、原田が描き写した家紋のみ。
実物が刻まれた着物と帯は売り払われ、古着屋を尋ね回るも既に買われた後だった。
土方は監察方に対し関与するな、そして幹部には監察方を頼るなと言っていたが、山南は独自に指示を出しの出生を探っていた。
手掛かりが余りに少なく、未だ何も分かっていないが。
「丁寧に磨った墨は扱い易く、良い字を生みます」
刀を持てない山南は、これまでの職務から外れたついでに、の新しい師匠役を務める事になった。
文字を学ぶには、失敗を恐れず済むだけの半紙と筆記用具、正しい知識を持つ師が必要だ。
怪我を負ったとはいえ字を書くに不便は無い。
粘りが出るまで磨り上げた墨に、少しずつ水を垂らして緩め、混ぜ合わせる。
手元を覗き込む女児に尋ねた。
「文字を書くのはお得意ですか」
は頷いたが、膝に置かれた拳が少し固くなるのを山南は見逃さなかった。
何か文字に纏わる事柄に思い出があるようだ。
「まずは自分の名前から始めてみましょう」
筆先に墨を含ませ、半紙へと走らせた。
手本になるは山南敬助。新選組の総長を務める男の名だ。
そう食い入るように見つめられると少し緊張してしまう。
やや力みすぎたはねを書いた後、一呼吸して筆を置く。
は両の目いっぱいに山南の名を映しているように見えた。
「さあ、次は貴女の番です」
が筆を取り、山南を真似て墨を含ませる。
含ませすぎた墨は堪えきれず、運ぶ途中で半紙に垂れた。
気にしたが一瞬手を止めたが、優しく先を促す。
「どうぞ、続けてください」
爪の色が白くなるほど力強く握りこまれた筆が、一画目を落とす。
熟れた桃の柔らかな頬、滴る果汁で潤った口元、しかし嵐の空より深い色の目が、其れを覆う睫毛が、可憐な容姿に影を宿す。
美しい子供の、美しい名前。
砕いた桜貝の小さな爪先を薄灰色に染めて、半紙の上に刻まれていく。
この幼い子の辿った道が知りたい。どうしてこんな場所へ流れ着いてしまったのか。
意味のない事などない。必ず全ての事象は縁で繋がっている。
でなければ、我々が誠を背負いながら、腹の中に嘘を飼う必要がどこにあろうか。
と、明るい光の中、真知が筆を置いた。
「では一度、見てみましょうか」
が悪い緊張感、怯えにも似たそれを抱いているように見えたので、山南は鳥の囀り三回分待って、添削を申し出た。
文字の読み書きは預け先で教わっただろうが、同じ歳の頃ならば読み書きの一切が出来ぬ子も多い。
意思の疎通を文字で行うために山南は幼さを承知で文字を教えることにしたが、
恐らく寺子屋では他の子と足並みを揃えさせるために教えていたのだろう。
それぞれの歩みに合った指導でなければ、どれ程熱心であろうと身に付くものは少ない。
才覚を摘んでしまう。
教育者たる者、焦りは封じなくてはならない。
が息を吐く。細筆の先に朱墨を含ませ、半紙を引き寄せる。
『』
美しい名前。
だが書き順は滅茶苦茶で、止めない、はねない、払わない上に、右から左に引かれた線。
将来有望、独創性たっぷりの仕上がりだった。
山南は迷った。朱墨は間違いを示すためにある。
しかし目を落とせば、膝の上で拳を作る姿。
叱られる、と、痛みに耐える姿勢を取っている。
今彼女に必要なものは達成感の方だろう。
「さん、よくできました」
迷った末に、山南は小さな花丸を描いて、朱筆を置いた。
が意外そうな顔でこちらを見ている。
山南は微笑みかけた。
「沢山書いて、どんどん上手になりましょうね」
黒曜石の瞳に光が宿ったように見えた。
この原石を磨き上げ宝石とするのも、くすませて砕いてしまうのも全て、新選組次第。
山南は、湿り気の残るの名前をそっと持ち上げ、窓際に渡した麻紐に木ばさみで留めて吊るした。
半分開いた窓から優しく吹き込む風で揺らめく。
確かに拙く未熟な字だが、この部屋にある他の何よりも輝いて見えた。
我らが切り開く未来に暮らす者を育てる。近藤の言葉を噛み締める。