生まれたて
何事も過ぎれば過去、繰り返せば慣れる。
父を探す女子との暮らしが今では当たり前の日々であるように、迷子の女児との毎日も暫く経てば日常と化した。
はまるで愛らしい雛鳥だったが、暮らし始めてみると実際には大方の事は一人で出来る"立派な雛鳥"であった。
しかし男たちは幼子への接し方がよく分かっておらず、少々乱暴ではないかと心配になる遊び方をする一方で、
永倉は殆ど粒の無い粥を出し、藤堂は一挙手一投足を近すぎる距離で見守った。
不要な手助けを受けるの面は虚ろで、
まろやかな地獄の様相を目の当たりにする度、斎藤はの自立を促す教育方針を固めた。
さて、斎藤は女児に寄せていた生活を徐々に元に戻し、近頃は夜間の巡察に復帰した。
彼が留守の間は他の面々がの面倒を見る事となった。
「宜しく頼む」
「おう、気を付けてな」
律儀な斎藤はその日の子守に必ず声を掛けてから出掛けるので、自然と見送りの挨拶を欠かさなくなった。
後悔のない人生のためには、適度な緊張感が必要である。慣れることが良いとは限らない。
人の死に際して最後に交わした言葉は必ず思い返される。
行って帰って来ることに慣れてはならない。
死はすぐ側で我らの首を舐り、隙と機会を窺っている。
去り行く誠の文字、見送るは長身の男。
襖を閉め振り返れば、褥の上の幼児は手遊びを止めて此方を見上げた。
「今日は夜更かししちまうか?」
原田は愉快な人生のために必要な、くだらないことや馬鹿らしいことを教える係だった。
三馬鹿の内の二人が変な育児を施すものだから、原田は大したことはしていなくとも際立ってまともに感じられた。
を布団の中へ促し灯りを落とす。
「それでよ、俺は言ってやったんだ。自分の顔を鏡で見てから言いやがれってな」
背中を優しく撫でながら、原田は武勇伝を面白おかしく脚色して話した。
時折無邪気な笑顔が咲く。花のかんばせ。愛おしいという言葉の意味を知る。
話していると、やがて重たげな目蓋が双眸を覆い隠す。
正しい寝息が繰り返されるのを何度も聞いてから、原田も布団へ潜った。
行儀の良い眠りに就くのはと共に過ごす夜だけだ。
初めの内は寝かしつけた後布団を出て、少々酒を引っ掛けてから夜更けにまた戻っていたのだが、
暗闇の中で目を爛々と光らせるを見て反省した。
幼子の眠りは意外と浅く隣で人が動けば直ぐに起きてしまう。
それがの性質なのか、子供は皆そうなのかは分からないが。
は、近藤が見当を付けた年齢の割にはやや小柄で、しかしやや大人びた表情をしていた。
何せひとつ歳が違えば出来ることが大きく変わる。
皆で頭を悩ませていると、山南が肉を切って骨を見れば分かる等と物騒なことを言い出した。
本人は冗談のつもりらしかったが、以降この話はしていない。
「どした…」
虫すらもまだ眠っている様な頃、原田は不意に起こされた。寝惚けた声が出た。
小さな手が控えめに体を揺すっている。
薄ぼやけた視界の中では外を指差していた。
眉尻は下がり、唇を噛むようにして結んでいる。
まばたきを繰り返して眠気を追いやっていると、は耐えかねたように原田の着物を掴み引っ張った。
漸く目が覚める。
「…厠か」
踏み締めた床板が足裏を冷やす。
優しい夜だった。
空は白み始めており、夜明けが近いことを知らせている。
雪村とは八木邸の母屋近くの厠を使っていた。
寝室から近い場所は男ばかりが使っている上、上半分の戸がないので、
仮にも性別を偽っている雪村が使用中に覗かれでもするとまずいことになる。
母屋近くの方は戸の作りが頑丈であったし、晴れた夜なら明かりも入った。
原田は戸の向こうから聞こえる衣摺れの音に耳を澄ませていた。
勿論排泄音を聞く趣味はないが、例えば身体ごと落ちてもは声を挙げないだろうから、こちらが気付いてやらねばならない。
そういえば寺子屋に預けられていた間、は日々をどのように過ごしていたのだろうか。
話に聞く限り、夜半に厠に付き添ってくれる大人はいないような気がするが。
と、が静かに戸を開け戻って来た。
「おかえり」
原田は桶に水を汲んでに手を洗わせた。予想が正しければ、真知の生まれた時期は虎狼狸の流行と重なる。
だからということでも無いのだが、何となく衛生面に気を遣わせた。
当然ながら手拭いは持っていないので、真似するなよと言いながら己の袖での手を拭う。
くだらない秘密を共有した悪戯心で二人は顔を見合わせ笑った。
もしが、本当はひとりでも厠に行けるのなら、わざわざ原田を起こして付き添いを乞うのは甘えだ。
甘えというのは一種の信頼だ。
寄り掛かっても倒れない柱かどうかの確認だ。
原田は、に試されたのかもしれないなと思った。
部屋へ戻る途中で、白み切った空の屋根の向こう、山の向こうから、ほんの少しだけ朝日が顔を出した。
細く眩く輝いている、それは世界が目覚める瞬間だった。
の瞳に光が差すのを見た。
瞳に広がる深い深い海が、宝石の様に輝くのを見た。
原田はの横にしゃがんで、小さな身体を柔らかく包んだ。
少し乳臭い、幼子のにおいがした。
「、おはよう」
今日が始まる。返事は無い。