世迷言
山﨑を伴って寺子屋へと向かった土方は、日暮れまでまだ時間があるというのに随分と早足だった。
寺院の敷地内に在る小さな小屋、入り口に立つ愛想の無い師匠は、見るからに嫌そうな顔をして二人を迎え入れた。
出された茶はやけに渋い味がした。
土方はまず、一時とはいえ新選組の頼みを聞き入れ、女児を預かってくれた礼を言った。
師匠は老人らしい嗄れた声で、小言を二、三挟んだ。
年寄りというのは若い者を見るだけで説教を垂れたくなるらしい。
小言と小言の間に挟まった話の要点を纏めると、口の利けぬ子は面倒で大変だ、ということだった。
女児は名をと言うらしい。
どこかで聞いた覚えがあるような、生まれて初めて聞くような、不思議な心地がした。
読み書き算盤、全て教える前から知っていた、と呟く年寄り。それはつまり教え甲斐が無いという意味だが。
小言と嫌味の合間を縫い、今後は新選組が女児の身柄を預かる事を伝えると、心なしかその顔色は喜びに傾いた気がした。
女児の所持品の所在を尋ねると、師匠は悪びれる様子もなく全て売った、と言った。
刺繍入りの上等な黒地の着物と、端に家紋の入った帯は、それなりの金に化けたようだった。
茶の味だけでない渋みを味わった帰り道、山﨑が口を開いた。
「副長は反対なさるものとばかり」
「俺は本物の鬼だと思われてんのか」
新"撰"組の事を頭に浮かべながら、土方は嘲るように言った。
世の情勢はさておき、拾っては捨てを繰り返す事が出来るほど土方自身は非道ではない。
斎藤が珍しく情に動かされたのだ、その始末を付けるのも長の役目。
しかし、新選組として受けた命に加え、謎の薬、娘の保護、果てには迷子の父兄役まで務めねばならないとは。
面倒な事になると分かっていても、おいそれと突き放せないのが土方だ。
理想と現実は掛け離れて行くさだめなのだろうか。
「これからどうなさるおつもりですか」
「親探して帰すだけだ」
「必要であればお調べしますが」
敵勢力の幼き密偵、という可能性が全く無い訳ではない。子供を使った戦略の実例はある。
口が利けないというのは、無駄な情報を洩らさぬよう調教されているからとも考えられる。
唯一手掛かりになりそうであった家紋入りの着物一式、その所在が分からぬ今、幼子の素性を探るのは容易ではない。
山﨑と島田の手腕があれば、いずれ正体は分かるだろうがやはり、監察方には本来の仕事に専念して貰わねば。
土方の頭で考えが纏まる頃には屯所付近まで戻って来ていた。
八木邸の門前で足を止める。
「いや、表の俺達でどうにかする」
「左様でございますか」
「悪かったな、付き添わせて」
「いえ、いつでも動けるよう、こちらも整えておきます」
影が色濃く際立つ夕暮れの中で、山﨑は溶けるように立ち去った。
右門に掲げられた新選組の表札を尻目に土方は歩みを進め、屯所内へ戻った。
土間で草履を脱いで上がると、床板が僅かに振動している事に気付く。
また誰か暴れているな。
組長らしい振舞いをしろと何度言っても聞かない野郎数人の顔が脳裏に浮かぶ。
と、見慣れない大きさの生き物が、土方の元へ飛び込んできた。
反射的に受け止めた土方を見上げるは、漆黒の瞳。
先程布団の中で此方を見ていた女児は、突然壁が現れたとでも言いたげに目を丸くしている。
「げ、土方さん」
「平助」
「や、俺は何にもしてないから!」
「まだ何も言ってねえだろうが」
女児の直ぐ後を追って出て来たのは藤堂平助である。
あらゆる意味で、女児と一番歳が近いのはこの男だろう。
「おい平助、早く戻って来いよ」
「分かってるってば!」
広間から声が掛かる。応じる藤堂の声が耳をつんざく。
一々声がでけえんだよ。土方はどうにか怒声を飲み込んだ。
藤堂は早足で女児の手を引いて行き、土方はその後を追った。
小さな体はほのかに湿って温かかった。湯でも浴びたか。
「土方さん、おかえりなさい」
土方に気が付いた小姓こと雪村が、配膳する手を止め微笑んだ。
真新しい四つ身を身に纏った女児、は、胡坐を搔いた原田の足の上に座った。
淡い色に麻の葉模様の着物は八木邸の子息のお下がりと見られる。
原田に髪を撫ぜられて嬉しそうにする女児は、年相応の可愛らしさで溢れていた。
傷はまだ痛々しいが、先程布団の上にいた弱弱しさはもう無い。
寺子屋の空気には馴染めず浮いた存在だったようだが、それはどうやら受け入れる側の問題だったらしい。
手遊びの様子を遠目に眺めていると、永倉が隣に座った。
「そんで?この子、新選組で引き取るらしいじゃねえか?」
「誰だ、べらべら喋りやがったのは。まだ正式に決めた訳じゃねえぞ」
素知らぬ顔をしているが、間違いなく犯人は原田だ。
土方は優男の横顔を睨み付けた。
「…副長」
「お前も人の子だな」
情に厚いところがあるじゃねえか。斎藤は膝をつき、頭を垂れた。
「子供に関しちゃあれこれ言える立場じゃねえが、大人の相手するより厄介だぞ」
「はい」
「最終決定は近藤さんだが…その前に山南さんだな」
「…」
「何言われても、信じるものの為に戦えよ」
何があっても己の信念だけは曲げない。どんな時も絶対に後退はしない。
それが新選組の武器であり、近藤が掲げた誠に続く者の意志だ。
膳に夕餉の献立が出揃い、湯気を立てている。
何事も、まずは腹を満たしてから。空腹では纏まるものも散らかるばかりだ。
邪気を払う麻の葉は、子の健やかな成長を願うもの。
ここで過ごす日々が女児にどんな影響を与えるか、齋藤には想像も付かない。
信じるものの為に戦え。己の信念に従って戦え。