神のふところ

斎藤が世にも珍しい土産物を持ち帰ったあの日から、しばらくが過ぎた頃だ。 数奇な縁から雪村千鶴という男装の君が新選組預かりの身となった。 厳しい冬が終われば雪溶け水が川となり、真っ新の地面に新しい命が芽吹く。 新選組での生活に少しずつ慣れ始めた雪村を見て、斎藤はあの女児のことを思い出した。 屯所からそう遠くない場所で暮らしているはずだが、結局は異なる世界で暮らす者ということだろうか、 寺子屋で別れて以来一度も姿を見ていない。 こちらを見上げる黒曜の深い瞳に何か言葉をかけようと考えたが、子供に向けるような気の利いた台詞は出て来なかった。 不愛想な皺が刻まれた顔の男に背を押され、寺子屋の奥へ姿を消す美しい子。 どうか健やかに。 口から出せなかった想いは胸中で渦巻いた。

「毎度あり」

やや素っ気ない八百屋の主人が表面だけの礼を言う。 その日、斎藤は非番だったが、単独での外出が許されていない雪村の代理で買い物に出掛けていた。 新選組の調理担当は数日毎の当番制だったが、今や名ばかり、調理自体は雪村の専任となりつつある。 彼女の料理は沖田のように塩が効き過ぎていることもなく、藤堂のように肉や魚だらけになることもない。 雪村自身もただ居座るお荷物になるより、何か仕事が欲しい様子だったので丁度良かった。 斎藤は献立に従って野菜を買った。 京言葉を離さない新選組の面々は、浅葱の羽織が無くとも直ぐに判断がつく。 京の人々は余所者に厳しい。 煙たがられるのももう慣れたものだが。 屯所へと帰る道すがら、子供の群れとすれ違った。 その先頭にいる色の白い子に遅れて気が付く。 あれは。

「待て」

背中に言って止まるなら、それは子供ではないだろう。 先頭を追い立てるように駆け抜けていった姿に、僅かな胸騒ぎを覚えた。 暮らす世界の異なる、右差しの男と迷子の女児。 その線が再び交わる。 斎藤は躊躇いの残る足取りで子供の一団を追った。 争い事に首を突っ込む趣味はないがしかし、己の直感を信じずに何を信じるのか。 遅れを取ったため子供たちの背中はもう見えなかったが、土埃の跡を辿っていくと小道はやがて小さな石段に繋がった。 それを登るとひらけた場所に出た。先に赤の鳥居が見え、木漏れ日が点々と落ちている。 子供特有の高い声が遠くに響く。 斎藤は真ん中を避けて鳥居を潜った。 ここから先は神の領域。 拝殿の手前で立ち止まり、齋藤は何もない空間に問うた。

「いるのか」

小さな神社である。 人気が無く、風が木々を揺らす音が響く。 子供の声はどんどん遠のいて、最早声とも分からない。 待てど返事は無かったが、斎藤は拝殿の内側で小さな気配が動くのを感じた。 古い木材が擦れ合う音、開く拝殿の戸。 いた。 彼女が姿を見せた途端、風が止まったような気さえした。 神の子か、使いか。 干し草の色をした薄い衣服、血の気の引いた顔。 鋭さを増した黒曜石の瞳が、射貫くように斎藤を見ている。 紅を差した様な唇の端からは血が滲んでいる。 斎藤が近付こうと歩を進めると、女児は戸の内側に身を隠した。

「俺は何もしない」

返事の代わりに再び拝殿は閉ざされた。 斎藤は言葉の限りを尽くして、身柄の保護と怪我の手当てを申し出たが、返答はなかった。 初めて会った日を思い返す。 巡察中に婦人に声を掛けられたのだ。 この辺りの路地裏に、身寄りが無いと思われる子供がうろついている。 盗みでも働かれたら困る、だが放っておいて死んでしまったら寝覚めが悪い。 どうにかしてくれと。 そうして足を伸ばしたのが夜に目覚める街、島原近辺である。 件の女児は案外あっさり見つかった。 長屋の裏手、薪や雑多な小物が置かれた隙間に、まるで野良猫のように座っていたのである。 事の次第を話したが、彼女が理解出来たかは定かではない。 ただ、差し伸べた手を掴んだ様子から、拒んではいないとし、護衛として何人かで囲んで連れて行った。 斎藤が新選組の命に背かないのと同じ、従順な姿だった。 孤児とは思えない、警戒心の薄い様子。 保護、と言えば聞こえが良いが、正直な所その時の斎藤は後の事など考えてはいなかった。 後先考えぬ行動は今思えば己らしくない。 しかしこの容姿で、花街の近くを歩いていれば、闇夜へ連れ去られるのは目に見えている。 守らねば、という使命感に駆られていた。 そして今も、彼女を守らねばと思っている。 木の葉が擦れ合う音、鳥の囀り、町の遠い喧騒。 暫く耳を澄ませていたが、斎藤は静かに拝殿へ近付いた。 曲がりなりにも神の領域、忍び込むのは些か気が引けるが、扉に手を掛け手前に引く。

「眠って…?」

独り言は余り言わない質だが、流石に口を突いて出た。 転がり出てきたのは、静かな寝息を立てる女児。 二、三度揺すっても起きない所を見ると、随分疲れていたようだ。 脇に手を差し入れ抱き起こす。 斎藤は片腕に眠った女児、片腕に痩せた大根と、奇妙な姿で屯所へ戻る事となった。


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