どうか神さま、お月さま

か細い雨が降るとある夜のことです。 ランタンひとつをぶら下げて、ファントムハイヴ邸にぽつんといるのは。 近頃は街角で靴磨きをして日々の暮らしを賄っている、人間のふりをした天使です。 不思議なことに、霧雨はのランタンだけを包むように避け、灯火を消さずに守っています。 傘も差さずに庭先に立つは、濡れた手をコートの裾で適当に拭い、反対の手に下げたランタンの屋根を優しくノック。 ランタンは独りでに灯火を絞り、まるで細いロープのような光の筋を作り出すと、ファントムハイヴ邸の窓を照らしました。 窓枠の隙間を通り、ほんのわずかなカーテンの隙間を通り、ベッドに辿り着く光のロープ。 そこで眠っているのはお屋敷の主、シエル・ファントムハイヴ伯爵です。 トレードマークともいえる眼帯すら外した寝顔は、年相応にあどけなく、また麗しいものでした。 雨の中からがランタンをもう一度ノックすると、光は同じようにシエルの背中を叩きます。

「ん…」

夜半に背中を叩かれるなど、もう久しく味わったことのない感覚です。 まるで、母が子を寝かしつけるかのような優しい手触り。 シエルは少しばかり身じろぐと、鼻先を羽毛布団に埋めてまた静かになりました。 その様子をまるで目の前で見たかのように、はくすくす笑って呟きます。

「赤ん坊とさして変わらないな」

リズミカルに肩が揺れ、ぶら下げたランタンが揺れ、伴って光の筋も揺れ… 早く起きろと言わんばかりに背中を揺さぶられたシエルはびっくり、夢の淵から飛び起きました。 何事かと部屋を見渡すも、朝がまだ遠い部屋は真っ暗。 深い溜息を自分に向けて吐き、悪い夢のひとつふたつに取り乱したことを恥じていると、カーテンから伸びる細い光に気が付きます。 シエルは冷えた床に素足を下ろし、窓際へ。 重たい布を少し開き、光のロープを辿っていくと、水滴のついたガラスで滲む白い影。

「子供はもう寝る時間だが」
「君は都合がいいな、子供になったり大人になったり」

シエルが窓を少し開けて囁く声を聴いて、は一層楽しげに笑います。 がランタンに優しく息を吹きかけると、役目を終えた灯火は香ばしい煙と細かな光の粒子を残して消えてしまいました。 霧雨のせいか今夜は少し冷えるようです。 シエルは身震いして肩を抱くと、契約印が刻まれたオッドアイで白い影を睨みます。 どうやったって聞こえるはずもなく、届くはずもない小さな声が、どうして隣で話すのと同じように聞こえるのでしょう。

「僕は明日も仕事があるんだ。用なら手短に頼む」
「おやおや、何を言うか、朝まで付き合ってもらうよ」
「断る!」

シエルは窓を閉めようとしたものの、一足でここまでひらりと飛んだが腕を差し入れたので叶いませんでした。 またも許可なく部屋に入って来た客人にシエルは嫌な顔をして、ベッドまで後ずさります。 今日のは"湿った客人"なのです。いつにも増して迷惑です。 はカーテンを文字通りの元通り、わずかな隙間が開くように閉め、濡れた服を指で摘まみ上げると言いました。

「細かい雨は嫌になるね、傘を差そうが差さまいが、結局湿ってしまう」
「夜半に尋ねてくる客は嫌になるな… 僕が怒ろうが叩こうが、追い返しても帰らない…」

シエルがそっくりそのまま返すと、ベルのように軽やかに笑うの声。

「暗いな、灯りをつけようか」
「勝手にしてくれ」

はどこからともなくマッチを取り出し、ベッドサイドの蝋燭に火を灯しました。 シエルはベッドに腰掛けると、目を細めて照らし出される天使の横顔を見つめます。 はそんなシエルの前で、頭の煤けたマッチ棒を気取った手つきで握り、ワン、ツー、スリーで指をぱちん。 くるりと開いた手のひらは空っぽ。安いマジックを見せられたシエルは呆れて言います。

「そんなことより、濡れた服をどうにかしろ」

確かにそうだと頷くと、は外套を脱いでばさばさ振りました。 水は残らず布地に別れを告げて、セバスチャンが磨いた床にぽたぽたと落ちていきます。 明日、セバスチャンは必ずこの小さな水溜まりを見つけて、シエルに尋ねてくるでしょう。 夜更けにがやってきて…などと説明するのは、想像しただけでも面倒です。 シエルの溜息に気が付いたが、すっかり乾いた外套にもう一度袖を通しながら言いました。

「悪魔を気にしているね」
「お前のこととなると奴は厄介に拍車がかかるからな」

最後に頭を左右に振って髪も乾かしてしまうと (シエルはその様子を見て、昔飼っていた犬の水浴びを思い出しました) 聞き耳を立てるような仕草をして、やがて肩をすくめます。

「多分私が来たことには気が付いているだろうけれど」
「こんな堂々とした侵入者にも気が付かないようでは、執事の名が泣く」
「違いない。まあ誤魔化しておくか」

両手を空中に差し出すと、まるで透明人間の耳を塞ぐように優しく何かを包み込みます。 はて、以前からこんなにも堂々と"力"を使っていたでしょうか。 一方シエルはその動作を見ながら大あくび。なんてったって深夜です、本来子供は寝ている時間ですから。

「それで、何しに来たんだ」
「星を見に行こう」
「はあ?」

また突拍子もないことを。シエルは呆れ顔が板についてきました。

「今夜は雨だぞ。星は見えない」
「それはどうかな」

はシエルに顔をずいと寄せ、シエルは嫌そうに少しのけ反ります。

「君に魔法をかけてあげよう」

囁く声。まるで蜂蜜のようにとろけて惑わせる。 海の色に黄金色の誘惑が交じり合って、気が付くとシエルは肩を押され、柔らかなベットに転がっていました。 次いで隣に転がる

「今夜は冷えるね」

がふわりと広げたブランケットが視界を横切ると、見上げた天蓋の内側に、眩い星々が光り出しました。 手が届かないほど高く、飲まれそうなほど暗い空に、砂糖をまぶしたような点々が数え切れないほどたくさん。 穴の開いた黒板を灯りにかざして作った、偽物の星粒とは比較になりません。 冷えた空気は雨上がりの湿り気を帯びていて、肺いっぱいに吸い込むと体が透き通ってしまいそう。 背中にあたるベッドの寝心地は変わらないのに、ここは一体どこなのでしょう。

「ここには教会の高い屋根も、煤けた煙突もない。空のすべてが今だけは私たちのものだ」

青碧色の瞳に輝きを映し出すシエルを見下ろし、白をまとった天使は穏やかに微笑みました。 視界の端に、同じように微笑む三日月が浮かんでいます。 いつもよりも近くで輝く三日月と、共に輝く満点の星空。ふたりだけの、特別なショー。 シエルは唇を震わせました。

「星には詳しいのか」

声は空気に吸い込まれるように消えていきます。

「人間が付けた名前についてはよく知らないな」

聞かせてくれと言うのために、シエルは空へ手を伸ばし、細い指先で線を描きます。 パジャマの袖が重力に従ってずり落ち、頼りない白い腕が露わになると、そこに寄り添うようにの腕がやってきました。 シエルを真似て同じ星を辿り、いくつか星座の名前を復唱した後で、が手のひらをシエルのそれに並べました。

「小さな手だ」

シエルはの瞳を見上げました。 ドーム状の透き通った瞳には、2人の上に広がる星々が閉じ込められていて、同じように瞬いています。 いつかシエルの手がより大きくなったとしても、人間である限り、その瞳には適わないでしょう。 生涯潰えることがない、魔法のような輝き。 宝石から目を逸らしてシエルは星空に言いました。

「子供だからな」

の手が一度離れ、何かを掴んで戻ってきます。 星々とシエルの間に差し出されたそれは、金のキャンディラップに包まれた、ファントム社製のチョコレート菓子。 シエルはタナカやセバスチャンの忠告を思い出して躊躇します。

「虫歯になるから」
「大丈夫」

は大人っぽい指先で包装を剥がすと、シエルの唇に甘い粒を押し付け、宝石のような瞳を細めました。 何か言おうとうっかり口を開いたシエル。 転がり込んできたチョコレートは、甘く舌先で溶けていきます。 シエルは何やら複雑そうな顔で、また口を開きかけましたが、今度は指を押し当てられます。

「虫歯のメカニズムはよく知っている。一晩くらい平気さ、本当だよ」

慈しみがこもったの笑顔に、シエルは諦めてチョコレートを舌で転がしました。 チョコレートの殻の中には煮詰めたキャラメルが閉じ込められています。 もしも本当に虫歯になったらのせいだ。 シエルは責任の宛先を決め、口に広がる慣れ親しんだ甘みを味わいました。

「ファントムハイヴ、知っているか」
「なんだ」

シエルは冷えた腕をブランケットの中にしまいました。

「星は歌うんだ」

ひどく静かで、少し震えるような声です。 天を仰ぐの表情は見えません。

「星は歌っている。しかしその声を聴くには、ここはあまりに遠い」

暗闇の中の針先で突いたような光は、時折輪郭がぼやけ、ゆらめき、 明るくなったり、暗くなったり、蝋燭に灯した炎にも似た瞬きを忙しなく繰り返しています。 歌う姿は見えているのに、分厚いガラスを挟んでいるようで、耳を澄ましても歌声は聞こえません。

「天に帰れば聞こえるんじゃないか」
「そうかもしれないな」

ふふ、と笑ってこちらを見たの顔は、いつも通りでした。 冷えた風が吹いてのプラチナブロンドを乱していきます。 ブランケットを抱くように体に巻き付けると、シエルの目蓋に眠気が宿りました。

「本当は、近くにいても聞こえやしないんだ。宇宙には空気がないから」
「うちゅう…」
「そう、空気がなければ音は伝わらない。彼らの歌は残念ながら、誰にも届かない」
「…ん……」

重たげな目蓋をしきりにこじ開けようとするシエル。 はしばらくその顔を見つめていましたが、やがて視線は星空へ移っていきました。 眠りの崖でシエルが最後に見たものは、が包み紙の四隅を揃え、綺麗に畳む姿でした。

「天使の瞳は…みんなこがねいろなのか…?」
「さあ。この瞳は奪ってきたものだから」

ああ、天使らしい。几帳面で神経質で、人間離れした、美しい生き物。 薄いレモンイエローの月が、何も知らずに微笑みかけています。 シエルがと月のもとで会ったのは、この日が最後になりました。 先の質問を最後にシエルの目蓋は重く閉ざされ、目覚めたときには星空も、澄み渡る空気も、柔らかな微笑みもなく、 ただいつものベッドの上で、聞いたはずの答えと、舌先にあったはずの甘い気配を探していました。


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