いのちのうちがわ
一段と冷え込む午後のことです。
ここはイギリス最大の都市、ロンドン。
朝からやけに冷えると思っていたら、正午を過ぎる頃にはついに雪が降り始めました。
黒い帽子とコートに粉雪を点々と乗せたシエル・ファントムハイヴ伯爵が、まばらな人通りの街を行きます。
影のように寄り添うのは執事のセバスチャン。
いつもより厚着をしていますが、悪魔にとっては寒さなど大した問題ではありませんから、これは周囲の目を気にした厚着ですね。
ファントムハイヴ家の別邸であるタウンハウスから少し離れたこのあたりが、彼らの今日の目的地。
「ここか」
「ええ」
小さな集合住宅の前です。
特別新しくも、古くもない、極めて普通の3階建ての建物。
こういった集合住宅もまたタウンハウスと呼ばれ、市民の家としては一般的なものでしたが、
貴族のシエルが足を踏み入れることはそう多くありません。
狭い階段をこつこつと上がり、いくつかのドアを素通りした後、呼び鈴も、飾りも、何ひとつないドアの前で足を止めました。
拳を扉の前に掲げて、一呼吸の後にノックをします。
すると向こう側からくぐもった声が聞こえたので(残念ながら何と言っているかはよく分からなかったのですが)、
シエルは凍りつきそうに冷たいノブを握りました。
そこはとても… とてもおかしな部屋でした。
無愛想なグレーの石壁が剥き出しになっていて、キッチンとテーブルとバスタブとチェストが仕切りもなく同居していたのです。
ほのかにハーブが香る湯気に満たされた部屋、掠れた音でレコードが流れ、家主がバスタブからこちらに向かって手を振っています。
ロゼカラーの湯に沈む肉体が妙に艶めかしく、セバスチャンはシエルの視界を遮るように、しかし自然な動作で前に出ると、
胸に手を当て軽く腰を折って言いました。
「ご入浴中に失礼いたします、さん」
「ようこそ、我が家へ」
入浴中の人から歓迎の挨拶をされるのは、後にも先にもこれっきりでしょう。
湯気がふわふわと漂い、湿った匂いがする、ここはまるで温室です。
ざぱんと音を立てて湯船から上がったは、スツールの上のローブを広げて腕を通しました。
シエルは好奇心に駆られて、セバスチャンの後ろから顔を覗かせようとしたものの、それとなく制止されてしまいます。
きちんと肌を隠したは湯気の中からすらりと現れ、セバスチャンの後ろの小さなシエルに椅子を勧めました。
「さあ、お待たせ。お茶を淹れよう」
濡れたプラチナブロンドから透明な雫が滴っています。
セバスチャンはシエルの帽子とコートを預かりました。
あまりにも外と比べて湿度が高いので、ボタンや金具までもが薄らと雫をまとっています。
コート掛けにそれぞれを引っ掛けると、自分も上着を脱いでの隣へ並び、お茶の用意を手伝うことにします。
シエルはテーブルに肘をつきながら、チェスのように真反対の色をした2人の背中を眺めました。
が言います。
「連絡を寄越してくれればよかったのに。悪魔を走らせればすぐだろう」
「都合を知らせる手紙なら送ったはずだが」
茶葉の入った缶を取ろうとした白い手がぴたりと宙で静止しました。
くるりとキッチンに背を向けたが、チェストの方へ歩いて行って、一番上の引き出しを開けると…
中から取り出されたのは羊皮紙の封筒。
ワックスできちんとシールされたままのそれを見て、は肩をすくめます。
「読むのを忘れていたみたいだ」
そんな馬鹿な。天使は完璧主義です。うっかりはあり得ません。
高潔な生き物の中に存在する、悪魔との共通点がそれです。ヒューマンエラーなどない、人じゃないから。
シエルは眉をひそめました。
は額や首筋を伝った水滴をタオルで拭って、いつかのように軽く頭を振り、髪の水気を追い払っています。
結局、美しい琥珀色をたたえたティーカップは、セバスチャンの手によってテーブルへ置かれました。
シエルの後ろにセバスチャンが控え、一同がテーブルを囲みます。
茶葉はシエルのお気に入りと同じ銘柄ですから、本来ならば嗅ぎ慣れた香りがするはずですが、部屋に漂うハーブの香りが邪魔をします。
「薬湯なんだ」
訝しげなシエルに気が付いたはカップを傾けて、ゆらゆらとする琥珀色を眺めながら言いました。
「北の方へ行っていたんだが、雪で肌が焼けてしまってね。これは東洋のハーブらしい。火傷に効くと聞いた」
今もなお立ち上る湯気が視界を曇らせるので、よく見ることはできませんが、
言われてみれば、頬から鼻に掛けてが赤く染まっているような気がしました。
シエルも昔、真夏の太陽に晒されてそうなったことがあります。
水がかかるだけでもひりひりと痛んだものですが、は痛くも痒くもなさそうな表情です。
大人だからでしょうか。天使に"大人"がいるのかどうかはわかりませんが。
しばしの沈黙の後、シエルはようやくカップを持ち上げて、唇をつける寸前にふと思いました。
天使とは、果たして日焼けなどする生き物だったでしょうか。
従者の悪魔は血こそ流れど大抵の傷は付いたそばから癒えていき、そしてこれは、天使にも通ずる特徴ではなかったでしょうか。
シエルは口にしました。それは全ての魔法を解く呪文。
「おまえ、僕に何か、隠していることがあるだろう」
それは、一瞬の出来事。
シエルの眼前にはの美しい顔がするりと迫り、反射的につぶった目蓋の裏の暗闇で、柔らかいローブが頬を撫でるのを感じました。
シエルはに正面から抱き締められ、そしてはセバスチャンに喉を裂かれていました。
まばたき1回分の闇が晴れたとき、シエルの視界には無愛想なグレーの石壁と、窓の外の濁色の空だけが映っていましたが、
ぼたぼたと服へ滴る温かい感触で他者の流血を悟りました。
セバスチャンはが主を抱き込む刹那に危機を察し、その白く輝く喉元へ銀のナイフを突き立てたのでした。
神の使いへ、刃を突き立てたのでした。
「少しおやすみ、ファントムハイヴ」
が囁きます。
刺さったままのナイフの隙間から、言葉とともにひゅうひゅうと息が漏れています。
その声でおやすみと言われると、不思議と瞼が、唇が、意識が、とろけて重くなっていくのです。
ああ、ああ、と思う間に、シエルはまた暗闇の中へ落ちていって、真白な友の腕に身体を預けて眠ってしまいました。
さあ、黄金色の瞳が、紅茶色のそれと交わります。
セバスチャンは爛々と光る目で、一層強くナイフを持ち直しました。
「坊ちゃんから離れるか、このまま首を落とされるか、今なら選べますよ」
「そう怖い顔をするな」
どこまで鋭く磨き上げても所詮は食器、首を落とすなどできるはずもなく、は小さく笑いました。
ひゅう、ひゅう。しかしこれは、人間だったなら、ただごとではありません。
は少し不便そうではあるものの、やっぱり痛くも痒くもなさそうです。
「あなた、もうすぐ死ぬんでしょう。私が気付かないとでも?」
セバスチャンはこの部屋に漂う"におい"に気が付いていました。
東洋のハーブでもかき消せない、それは魂の芯から立ち上る、多様な生命のかおり。
魂を覆う器に限界がきて、ひび割れから漏れ出しているのだと、容易に想像がつきました。
身体のパーツのどこもかしこも誰かのものだと語ってきたですから、それがつぎはぎであったことは明白です。
つぎはぎの器がそう長持ちしないことも。
「次の器をお探しなら他を当たってくださいませ。"これ"は私の獲物です。掠め取ろうなどとお思いになりませんよう」
「よく言うよ、死神の獲物を掠めてばかりの生物が」
の口元が嘲るように歪みます。見たことのない表情でした。セバスチャンは苛立ちを感じました。
「二度と無駄口がたたけないよう、舌も切って差し上げましょうか」
セバスチャンは手袋をした指先をの口の中へ突っ込んで、舌を掴んで引きずり出しました。
流石のも少々呻き声を上げますが、セバスチャンはお構いなし。
加虐心を灯した悪魔は、懐からもう1本、銀の刃を取り出そうと、首に突き立てたその柄から手を放します。
そうしてふと、撫でたの舌がまるで肉のようになめらかであることに気が付きました。
の舌は金色の粒飾りに貫かれていて、天使という役に似合わない野蛮な輝きを灯していたはずですが。
疑問を抱く、はっとする。手放したナイフをすぐに掴み直します。
こちらを見上げる苦痛に歪んだ黄金色が、本当に笑っているようにも見えて。
「あまりいじめないでやってくれよ」
ぬるりと、セバスチャンを後ろから抱きすくめる白い腕。
肩を這って、ナイフを持つ手を上から握られ、セバスチャンは凍り付きました。
天使がふたり?
「随分と騙されやすい… 鼻が鈍ってるんじゃないか」
背後から現れた美しい横顔は、紛れもなくでした。
2人目のはセバスチャンの手ごとナイフを握り、引き抜きます。
1人目のの首筋からは、血の代わりにもうもうと湯気が立ち上り、瞬きの間に霧散して姿ごと消えてしまいました。
が消えた跡には反対向きに置かれた椅子があり、シエルはその背もたれに身を預けて眠っているようでした。
確かに肉を貫いたはずのセバスチャンの銀のナイフも、今朝磨いたままの姿です。
セバスチャンは自分の感覚が信じられなくなりました。
「もうすぐ死ぬ、は間違いだ。正解は、もう死んでいた」
この部屋に立ち入った瞬間から、シエルとセバスチャンはいわば魔法にかけられていたのです。
ずっと話をしていたのはが作った分身で、本来のはバスタブの底で、胎児のように丸くなっていたのでした。
"違う"と悟られれば解けてしまう、柔らかい嘘。それは湯気として、皆を包んでいたのでした。
「いいね、肺で吸う空気というのは」
は真冬の外界へ繋がる窓を開け放ち、随分と清々しそうに深呼吸をしました。
「しかし、返事もないのに押しかけてくるものじゃあない。私にだって隠しておきたいことくらいある」
隠し事ばかりの生き物が肩を竦めています。
「少々醜いだろう、こういうのは」
生まれ落ちた瞬間の、血混じりのぬかるみで震える、未完成の肉体。人間の世界では祝福を受けるべき姿です。
人知を超えた生き物のそれは、さぞかし尊いものだったでしょう。見せたくはなかったようですが。
慈しむ視線が撫でるのは、小さき友の姿。
「返信がないからこそ、坊ちゃんは大層心配なさったのですよ。一言お返しくださればよかったものを」
「返せるものなら返したさ。君、まさか赤子がペンを持てるとでも思っているのか」
セバスチャンは汚れてもいないナイフを拭い、その鏡面に映る自分の顔を見つめながら、努めて冷静な声を出しました。
「…一体、どういう理です?」
「死んで、生まれた。それだけの話だ」
言葉通りに受け取るならば、は本当に生まれなおしたということです。そんな、まさか。
生きとし生けるもの全ての道理に反しています。
真をまさぐるセバスチャンの紅い瞳に貫かれても、やっぱりは、痛くも痒くもなさそうです。
掠れたワルツが終わりを迎え、レコードの針がヅヅ、ヅヅ、と途切れ途切れの音を鳴らす中、翼を持たない天使が言いました。
「罪を背負っているから、いつでも正常ではいられないのさ」
おかしな部屋です。おかしなことばかりです。何が本当で、どれが道理にかなっているのか。ここは天使の眠る部屋。
今は、冷めた紅茶と子供がひとり、眠る部屋。