お砂糖ひとさじ

爽やかな風が吹く昼過ぎのことです。 セバスチャンはファントムハイヴ家のお屋敷の大きな大きな庭の真ん中で、深い深い溜息を吐きました。 目の前には座り込んで泣きじゃくる庭師のフィニアンの姿があります。 セバスチャンの溜息の原因はもちろん彼です。 また肥料と除草剤を間違えて花壇に撒き、十種のローズを全てだめにしてしまったのです。 これはシエルが贈り物として受け取った貴重なもの。 美しい花びらに朝露を乗せて輝いていたローズは、今は茶色く萎びた茎が散らばるのみ。 見るも無残に枯れ果てています。 一体どうやったらこんな事態になるのやら。 完璧な執事のセバスチャンには、フィニアンがこれまでに犯した失態の数々がこれっぽちも理解できません。 きっとこの先もずっと理解できないでしょう。

「新しい苗を手配しなければ」

セバスチャンは泣き喚くフィニアンをなだめて部屋に帰らせてから、庭を綺麗に片付けました。 一本残らず枯れた花々を拾い、土を新しいものに換え、肥料を混ぜて耕したところで一度全体を眺めます。 どこに何色の花を、どのくらい植えれば庭がより美しくなるか、これは非常にセンスの問われる作業です。 顎に手を当て考え込むセバスチャン。なんでもないような仕草すら絵になるのですから、 レディたちのスター、クリスタルパレスのオペラ俳優たちが、泣いて悔しがることでしょう。 彼がふと大葉を茂らせるホスタに目を遣ると、その間に黄金色が二つ輝いているのが見えました。

「にゃあん」

一声鳴けば、悪魔も堕ちる。 白い猫の甘い声に、セバスチャンのハートはズキュンと撃ち抜かれてしまいました。 手袋をしたままの指先にピンクの鼻を摺り寄せてくる、その愛らしさと言ったら! 煮詰めたお砂糖色の瞳、綿菓子のように柔らかなボディ。 ああなんと美しい。 そう思いながら喉の下をくすぐったそのときです。 白猫は牙を剥き、セバスチャンの指先に噛み付きました。 セバスチャンは悪魔ですから、猫の歯など大した痛みではありませんが、心は酷く痛みました。 一目惚れの相手に手酷く振られたのです。 落胆の表情を見た猫が意地悪く笑います。

「騙されたな」

野良猫は煙となってするするほどけ、やがて人の形を作り始めました。 綺麗に結い上げられたプラチナブロンド、白いブラウス、ロングスカート。 日傘まで手にしたその姿はどこをどうみても良家のお嬢様で、いつもと少しばかり様子が違います。 ですが確かにこれは、天使のです。 天使にとって自分の見た目を変化させることは、指を曲げ伸ばしするぐらい簡単なことなのでした。

さんでしたか」
「やあ、間抜けな悪魔よ」

格好に相応しくない口調で、しゃがんだままのセバスチャンを見下ろします。 その瞳は猫と同じように甘くて美味しそうな黄金色。 がっかりしたセバスチャンは溜息を吐きながら立ち上がり、血で汚れた手袋を一瞥しました。

「下ろしたての手袋になんてことを」
「愛嬌だと思ってくれ」
「そういったご趣味をお持ちとは、存じ上げませんでした」

髪や服装だけでなく、身体つきまでいつにも増してしなやかです。 これではまるで女性のよう、と思いましたが、天使には元々性別なんてありませんから、どんな姿を取ったって自由でしょう。 人間に紛れて生活している彼…いいえ、今日は彼女と呼びましょうか。 とにかくは人間に紛れて仕事をしながら暮らしています。 先週は煙突掃除屋でしたし、その前は大道芸人でした。 ときたら、死ぬまでに仕事と名がつくもの全て経験するつもりなのでは、というほどに転職を繰り返しているのです。 今週の仕事は、とセバスチャンが問うと、は日傘をくるくる回して言いました。

「新妻」
「…は?」
「いつまで遊んでるんだ、セバスチャン」

セバスチャンがぽかんとしていると、頭上から主の声が降ってきました。 広大な土地と権力、それを管理し支配できるだけの才能を持つ、ファントムハイヴ家当主、シエル・ファントムハイヴ伯爵です。 出窓から顔を出す彼に気付いたが、手を挙げて挨拶します。

「やあ、ファントムハイヴ」
?一体どこから」
「この屋敷に盗人が入るのも時間の問題だな」

シエルもセバスチャンも、客人が玄関から入ってくることを望んでいるのですが。 神出鬼没の人外にとっては、普通の人間ならすぐあの世行きの罠なんて、何の障害にもなりません。 私兵の役割を兼任する使用人たちもの侵入を食い止めるには少々本気になる必要がありました。 一方ではお菓子でフィニアンを釣り、魅力的な振る舞いでメイリンをメロメロに、バルドロイの煙草には水を掛け、 最終的にいつも無傷でシエルのもとへ辿り着くのです。 シエルは呆れ顔の後、とびきり清楚な姿をしているを見て言いました。

「なんだ、その恰好」
「案外似合ってるだろう」
「まあ、似合ってなくはないが」
「フィアンセからの贈り物なんだ」
「お前、婚約したのか」

シエルが宝石のような瞳を大きく見開きました。 薄っすら口紅を引いた口元で微笑むは美しく、まるで絵画のようで、セバスチャンと見事に対になります。 これが先週、埃と煤にまみれた酷い姿で屋敷に現れ、 セバスチャンが磨き上げた大理石の床を汚して行ったのと同一人物なのですから驚きです。

「一体どなたとご縁があったのです?」
「アレイスト・チェンバーという男だ」

が挙げた名前に戦慄が走ります。 アレイスト・チェンバー、通称名はドルイット子爵。 シエルとセバスチャンは何度も顔を合わせていますが、どれもあまりいい思い出ではありません。 美と食と芸術… 特に美に執着しており、自らをも美の化身と呼び慕わせている、趣味の悪い男です。 闇オークションのことを思い出し、シエルは背筋が粟立つのを感じました。 フリルたっぷりのピンクのドレスとツインテールの付け毛のことも、一生忘れないでしょう。 独特の間が流れたのを感じ取ったが、困ったように笑います。

「婚約というと語弊があるんだ。貴族というのは何やら面倒な生き物でね」
「どこの馬の骨とも知れないお前を迎えるのは、一族としても抵抗があるだろう」
「その通りだ。どうにか出自を探ろうとしてる。戸籍に中身を詰めておいてよかったよ」
「がらくたの継ぎ接ぎがいつまで通用するか…」
「ああ、何せ貴族は大体鼻が利く」

は日傘を少し持ち上げ、穏やかな空を見上げました。 陽光を遮るようにかざした左の細長い薬指に、大粒の輝きを宿した婚約指輪がはめられています。 豪勢な食事を求めて、華奢なドレスをまとい、偽物の招待状を手にパーティーに紛れ込んだのが発端でした。 主催者であったドルイット子爵に見初められたは、あれよと言う間に屋敷に連れられ、部屋を宛がわれ、 陶磁器に触れる手付きで髪や肌に触れられた後、"身体にぴったり合うドレスと指輪~プロポーズを添えて~"を頂戴したのです。 ちょっと美味しい肉が食べたかっただけだったのに、随分と厄介なデザートまで頂いてしまいました。

「今日の私は子爵夫人だ。もてなしておくれ」
「そんな厚かましい夫人がいてたまるか」
「玄関からでも窓からでも、隙間があれば入り込むのさ。全ては君に会うために」
「非常識め」

嫌な顔をしたシエルは、渋々といった様子をたっぷりに見せつけながらセバスチャンに指示を出し、アフタヌーンティーの準備をさせました。 の過去よりもがらんどうのイングリッシュガーデンに、出来の良い執事が紅茶の香りを運んできます。 かぐわしい香り、それは自由の香り。さて、デザートはどうしましょうか。 爽やかな風は体を過ぎて、午後を彩り去って行きます。


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