拝啓

仕事を終えた後の、とある夜明けのことです。 馬車の中で揺られるシエルは、小さなガラス窓の向こう側、白んだ空をちらりと見てから、目を覆うほどに深くシルクハットのつばを下げました。 清々しい朝がもうすぐそこまでやってきています。 この馬車はロンドン西部のウィンザー城へ向かっていて、シエルは朝一番で女王陛下へ"例の仕事"の報告をしなければなりません。 さっきまでの夜のことを思い返しながら、シエルはハットの下で自然と目を閉じました。 生臭くって、どす黒くって、気を抜けば引き込まれてしまう底のない闇。 記憶というのはなんと優秀なフィルムでしょうか。 自分が覚えている限りは失われることのない永遠の記録。 匂いも、音も、感情も、その場にあった空気すらも鮮烈によみがえる、瞼の裏側の劇場。 失くしてしまいたいものに限って色褪せずに再生され、 そして、永遠であれと願ったものほど、遠く、遠く、ついぞ輪郭さえなぞれないほどにぼやけて消えていってしまうのです。

それは、なだらかな丘陵の果てからのぼる朝日のきらめきに、照らされる小麦畑の一面の穂に、その中を駆けていく狐の毛並みに。 ぼやけた思い出が浮かんで、心が揺れるのです。 何か忘れていることがあるような、という疑念が脳裏をよぎり、だけど思い出せやしない。 思い出すべきこと自体がそもそも存在しないかのような、なんだ気のせいか、とも言えそうな。 指で触れて、外殻を確かめることもできない、透き通った感覚。 虚しさとでも呼びましょうか。 例えば、西の山々に沈みゆく太陽のまばゆさに、照らし出される部屋の翳りに、カップにたたずむ琥珀色の水面に。 シエルは何度も心を揺らして、その度に、"何かを取りこぼしているのでは"という疑念を強めていきました。 傍らでただ微笑むのはセバスチャン。 シエルの疑念にはとうに気が付いていながら、何も言わずにいる。 悪魔で、執事ですから。 教えてやる義理はなく、確かに嘘は吐いていません。 近頃は暇さえあればいつも、心の奥底の透き通った虚しさをなぞっていました。 今だって、この夜の惨劇と血溜まりを瞼の裏で再生しながら、心の中では掴めもしない輪郭を辿ろうとしているのです。

シエルが静かに暗闇を揺蕩っていると、突然がくんと馬車が大きく揺れました。 車輪が地面に空いたくぼみか何かの上を通ったのでしょうか。 その衝撃はシエルのハットを持ち上げ、腰を浮かせ、そして驚いて見開かれた青い瞳にめがけて、小窓から光の筋が差し込みます。 あの朝日に、たなびく一面の穂先に、駆け抜ける毛並みに、その全てに宿る、黄金色。

そうだ、そうだった、かつて僕の側には、黄金色の瞳をした生き物がいた。 この夜明けの白んだ空のように、清らかな色をした生き物がいた。 まるで時間がひどくゆっくりになったようです。 馬車という箱の中で、シエルは衝撃を一身に受けたまま、宙に浮かぶ心地でした。 海と空を映した瞳の奥、ガラスを砕いたようなきらめきが弾けて止みません。 記憶と情景が光の筋と共に流れ込んできて、心を激しく揺さぶります。 どうして忘れていたの。 何度も手紙を書いたこと。ぐちゃぐちゃの綴りの返信に、溜息をつきながら訂正を繰り返したこと。 攫われた先の牢屋でばったり出会ったり、真夏の太陽の下でアイスティーを飲んだり、 くだらない手品をまるで魔法のように見せられたり。 人ならざる友でした。 再生されるそれは、走馬灯のように。死神のレコードのように。 なのに、どうして、肝心のおまえの姿だけはぼやけたままなのか。 名前も思い出せないままなのか。どうして、どうして。 眼帯までもがほどけて宙を舞いました。 暗闇と契約を映した瞳の奥で、砕いたキャンディのような虹色の破片がギラギラと輝きます。 これは、何も男女の間にだけ芽生えるものではなく、恋仲に、夫婦に、家族にのみ宿るものでもないのです。 かつて我々の関係を友と名付けた美しい彼の人を想いながら、シエルは痛いほどの"これ"を、いつか愛だと知るでしょう。 雫が滴るのを逆さまから見ているように、朝日が丘の向こうから滲んできました。 夜を晴らして、こんなに眩しい朝焼けに置いていかないで。ああ、もう滴り落ちてしまう。

どすん!と、シエルはベンチに再び腰を下ろしました。 溝やくぼみを踏み抜くのも、セバスチャンに至ってはわざとやっている可能性があるので困ったものです。 やれやれ、傾いて着地した身体を真っ直ぐに正し、同じく傾いて着地したハットも整えます。 そのまま指を頭の後ろへ回し、そっと眼帯の結び目を確かめて、くるりとつばをなぞって顔の前へ。 もう視界を覆ったりはしませんでした。 ふと窓の外を見ると、馬車と並走するように鳥が数羽飛んでいます。 つばめです。燕尾服のような長い尾が宙を舞い、餌となる羽虫を捉えて翻ります。 清々しい夜明けでした。 もうシエルの心に、空っぽの感覚はありません。 黄金色に馳せる思い出も、ありません。 時が夜明けから朝へと移り変わる頃、馬車はようやく女王陛下の住まい、その随分手前にある門の前で停車しました。 ここまでの道のりで車輪はまた何度かくぼみを踏み付け、小さなシエルはそのたびに腰と帽子を浮かせました。 もう少しまともな道を通れないものかと、お行儀の悪い舌打ちまでしてしまったかもしれません。 馬が小さくいななく声がドア越しに聞こえ、しばらくして、執事のセバスチャンがノックの後ドアを開けました。 恭しく頭を垂れ、ステップを示すセバスチャン。 こつこつと降り立ったところで、おや、とセバスチャンが声を掛けました。

「おやすみになっていたのですか、坊ちゃん」
「いいや、起きていたが」
「左様でございますか」

シエルは固まった身体をほぐすように、ぐぐっと一度背中を丸めて、それから胸を張り、肩を回しました。 道中何度も跳ねた腰とお尻が痛んだので、不機嫌そうに言います。

「何だ?」
「随分と、清々しいご様子でしたので」

睨み上げる主人に怯みもせず、セバスチャンは微笑みました。

「仕事を終えた朝は大抵そうだろう」
「ええ、確かに。それでは、参りましょうか」

小さな伯爵、シエル・ファントムハイヴは堂々と、ステッキとヒールを鳴らして歩みを進めます。 眩くこちらを照らす朝日に、揺れる心はもうありません。 さあ、新しい1日の始まりです。


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