インモラル・ティー

ジリジリと脳天を焦がすような、酷く眩しいの日のことです。 広大な領地を治める若き伯爵、シエル・ファントムハイヴとその執事、セバスチャン・ミカエリスは、 とある羊皮紙の招待状を手に、女王も訪問されたことで有名な植物園を訪れました。

「酷い有り様だな」
「ええ」

いいえ、正確には植物園跡地です。 数週間前に起きた放火事件で、温室と美しいガーデンは燃え尽きてしまいました。 犯人はその炎の中に身を投じて焼死したと報じられていますが、 完全に黒炭と化した人間の身元を判断するのは非常に困難で、捜査は難航しているとの噂。 今二人の前には、生命を絶たれた木々と焼け焦げた建物という無惨な光景が広がっています。 現場には未だに異様な匂いが立ち込めており、シエルは鼻に手をやりました。

「どうされますか、坊ちゃん」
「…行くぞ」

イエス、マイロード。 セバスチャンが答えるよりも早く、シエルは朽ちた門を抜けて跡地へと足を踏み入れました。 招待状の差出人はセバスチャンと同じ人ならざる者、天使の。 相変わらず美しい文字とおかしな綴りの文章で、ここで待つとありました。 一体何をするつもりなのでしょうか。 積もった灰でブーツが汚れるのも厭わず、シエルはザクザクと踏みしめて歩きます。 しばらく行くと、ヒールが地面を叩く音がコツンと変わりました。 黒く焦げてよく見えませんが、これは石畳のようです。 シエルとセバスチャンは一瞬目を合わせましたが、石畳を辿って更に燃え跡を進んでいきました。 焦げて根元から傾き、隣の木にもたれかかって辛うじて支えられている大木。 その幹の下から向こう側を覗き込むとパッと開けた場所がありました。 ここまでの道のりは煤けて黒一辺倒だったので、そこは眩く、光を反射します。

「早かったね、ファントムハイヴ」

それに、執事も。 白のテーブルは炎など知らぬ顔でそこにあり、白の天使もまた暑さなど知らぬ顔で腰掛けています。 木を潜り抜けたシエルは、眩しさに目を細めて言いました。

「一体何の用だ」
「随分と不機嫌そうだが、さては乗り気だったな」

はにこりと笑っていいました。 テーブルの上に置かれた懐中時計の針が、予定より5分早い時刻を示しています。 シエルの素直とは言えない仏頂面も相まって、その言葉が図星であることを表しているようです。

「優雅なティータイムを過ごそうじゃないか」
「…ここで?」
「ああ、もちろん」

太陽は天高く、黒を纏うシエルとセバスチャンを焦がします。 汗ひとつかいていない執事が、主人にジャケットを脱ぐよう促しました。 主催者が着席することを勧めたので、客人は真白い幻惑のようなそれに腰を落ち着けます。

「ここで何が起きたか知った上で、か?」
「この光景を見て察しがつかないなら相当のお馬鹿さんだな」
「お前がお馬鹿さんである可能性もゼロではない」
「酷い言われようだ」

ふふ、とは目を細めました。 対するシエルも目を細めますが、そこに浮かぶ感情はとはまるで違うもの。 似たような光景を、かつて目にしたことがあります。 ファントムハイヴ邸を焼き尽くし、家族と人権を奪い、屈辱と、憎しみと、 そしてこの悪魔を呼び寄せる機会を与えた、あの炎。 シエルは屋敷へ火を放った者共を含め、全てに復讐を果たすため、ファントムハイヴの地位に戻ってきたのです。 忘れたくとも忘れられず、忘れることなどできるはずのない、12月の灰色の空。

「ファントムハイヴ」

どのくらい己のルーツに心を馳せていたのか、の呼び掛けで我に返れば、 いつの間に用意したのでしょう、目の前には琥珀色の紅茶が差し出されていました。 透明なグラスに注がれているのは紛れもなくアイスティー。 涼しげなグラスを見たシエルは眉をひそめて一言。

「邪道だな」

ころり。溶けた氷が音を立てます。

「温かい飲み物など飲む気にならないだろう」

ミカエリス、君も掛けてはいかがかな。 はそう言いましたが、主人の隣に掛けるなど執事としてあってはならないことですから、もちろんセバスチャンは断りました。 しかし不思議なことに、が手を叩くとどこからともなく椅子が現れ、セバスチャンの膝の裏に体当たり。 膝がかくんと折れ、自然と椅子に腰を下ろします。

「座れ。ここでは誰しもが平等なんだ」

セバスチャンが手にしていたシエルのジャケットがふわりと宙に浮き、これまたどこから出て来たのか、 ハンガーに着せられて木の枝にかかりました。木の枝、木の枝? シエルがはっとあたりを見回すと、そこは焼け焦げた森ではなく、霧に包まれた芝生の上でした。 あれほど眩しかった太陽すら霞んで遠くにあります。 この場所で唯一、が用意したものだけが煌々と輝いています。 まるで天使の瞳のように。

「何のまやかしだ、と言いたそうだね」

は、にこりと美しく微笑みました。

「今からあの焼け焦げを元に戻すんだ。一緒に見届けてくれ」

シエルが声を上げる間も無く、は椅子から立ち上がり、テーブルから少し離れたところに立って大地に手をかざしました。 霧はまるで波打つ湖面のように広がり、芝生は風などないのにそよそよと揺らぎます。 を中心に、大きな力が動いているようです。 芝生は渦巻く何かに操られ、あっちへこっちへ向きを変えながら巻き上がり、 霧は竜巻のように渦を巻いては解け、紅茶の湯気のようにくるくる回ります。 が笑みを深め何かを握るように力強く拳を作ると、それらの動きがぴたりと止まり… 腕を振り下ろすと同時に先程の比にならないスピードで再び動き始めました。 嵐のような霧、地面は浮き上がるほどのたうち、千切れた芝が宙を舞う。 なのに、シエルとセバスチャンの髪は微動だにせず、テーブルはぴくりとも揺れません。 を中心とした大きな力は、の周りだけを目まぐるしく変化させて行きます。 のたうつ地面から植物の芽が出たかと思えば、ぼやけた天に向かって枝葉を伸ばしてぐんぐん伸び、 やがて大木となって樹皮は苔むし蔦が絡む。 まるで何百年とこの世を見守っていたかのような姿で、霧とテーブルと芝生しかなかった空間は埋め尽くされて行きます。 とシエルとセバスチャンの周囲で無数に繰り返される草木が息を吹き返す音。 ごそごそ、がさがさ、ざわざわ。 ガラスの向こう側の風景のようにまるで現実味がなく、しかし確かに目の前で起こっている。 シエルは青の瞳を丸く見開いたままで、がかけた魔法を見つめました。 やがて生命の音は徐々に小さくなり、最後は木の葉から朝露が零れ落ちる音で締め括られます。 足元は小さな可愛らしい花、空はめいっぱい枝を伸ばした木々で覆われ、爽やかな風が吹き抜ける美しい庭が出来上がりました。 適度な湿度を保った清々しい空気が全員の肺を満たしてゆきます。 シエルはゆっくりと深呼吸をしました。

「…何だ、今のは」

やっとの思いで絞り出した言葉。 人間というのは、心底驚くとまともな反応ができないものです。 椅子に腰を落ち着けたが天を仰ぎます。

「元の姿に戻しただけさ。火事なんてなかった」

死んだ人々の記憶は適当な都合に書き換えられる。 落馬したとか、別荘近くの湖で溺れたとか。

「それは"お前たち"の規律に反しないのか」
「さあ。私は天界を追われた身だから」

そういえば、の身の上話はほとんど聞いたことがありません。 いつもより短く切り揃えられた真夏のプラチナブロンドが、眩しくきらめきながら風に揺れています。 それまで黙っていたセバスチャンが、口元に穏やかな笑みを浮かべ尋ねました。

さん」

紅茶と同じ色をした瞳が、笑っていません。

「あなたは一体どれだけの命を」
「無粋なことを聞くね」

はにっこりと笑います。それはそれは美しく。細く長い睫毛に縁取られた、黄金の瞳が怪しく輝いています。

「どの木が放火魔の魂か、君にならわかるだろう」

この星に住まう生命の数は、いつでも同じ。 潰えた分だけ生まれ、生まれた分だけ消えていくのです。 命を生み出す者、命を食らう者、そしてただ翻弄されるだけの者。 彼らの不思議なティータイムを、真夏の太陽が見ています。


inserted by FC2 system