愛のせいにした

濃紺のヴェールが掛かった夕暮れ時のことです。 ファントムハイヴ家の幼き当主・シエルは、欠伸を零し半ば飽き飽きしながらも、経営者としての仕事に取り掛かっていました。 用意した紅茶もすっかり冷めきっています。 その背後に、迫る影がありました。 羽ペンを持つ手元に落ちる人影。シエルが驚き、振り返るとそこにいたのは天使の。 人間に紛れて暮らす、変わり者の人外です。

「勝手に入ってくるな」
「戸締りをもう少し厳重にしてはいかがかな」

いつの間にか窓が開いていて、夜の気配を感じる肌寒い風が吹き込んでいます。 シエルは今日一番の深い溜息を吐きました。 なぜこうも身勝手な人間ばかりが周りに集まってくるのでしょう。 いえ、は正確には人間ではありませんが。 シエルは、のシルクみたいに滑らかな髪が少し乱れていることに気が付きました。 よく見れば服も薄汚れています。

「で、小汚い格好で何の用だ」
「おや、ご機嫌斜めだな」
「勝手に部屋に入られて、機嫌よくいられると思うか?」
「実はヴァイオリンを貰ってね」
「人の話を………ヴァイオリン?」

は肩に掛けている黒い革張りのそれを指差しました。 角が擦れて剥がれ、年季の入ったヴァイオリンケースです。

「これの価値がいかほどのものか、ファントムハイヴになら分かるかと思ってね」
「僕を骨董品屋か何かと勘違いしていないか?」
「私は"お貴族様"と書いて"物の価値を知る者"と読んでいる」
「馬鹿にするな」

笑いながらは、シエルのデスク上の書類を適当に避け、そこにケースを置きました。 順番通り綺麗に並べて整頓しておいた契約書がバラバラです。

「こっちは仕事の途中なんだぞ」
「元に戻すのは得意だ。気にせず任せてくれ」

シエルがムッとするのを他所に、錆びた留め具を無理矢理押し上げると、現れたのは光沢のない古そうなヴァイオリン。 仕上げ塗りをしていないわけではなく、長年使う内に表面の塗装が失われていったのでしょう。 埃っぽい匂いがしますし、十分に愛情を注がれた後、長い間使われていなかったようです。

「僕も詳しいわけではないが」

鼻がむず痒くなってきたので、シエルはそっとケースを閉じました。

「刻印を見るにおそらく量産品だろう。ここまで古いと最早無価値だな」
「年代物として売るのは?人間は古いものに価値を見出す」
のような物好きがいれば欲しがるんじゃないか」

は、それは残念、と呟き、おんぼろケースを机から下ろしました。 先程滅茶苦茶に避けた書類やペンを元の場所へ戻していきます。 悪魔の執事・セバスチャンと同じく、も外見だけでは人間と概ね変わりありません。 しかしふとした瞬間に… 例えば、ペン立ての羽ペンの角度まで完璧に元の状態に戻している姿などには特異さを感じます。 やがて仕事の書類がの手元で束になって帰ってきました。ぱらぱら捲るとノンブルもないのに元通りの順番です。 シエルは机の上に紙束を置くと尋ねました。

「誰に貰ったんだ、そんな年代物」
「実を言うと奪ってきたんだ」
「…天使が強奪に手を染めたのか」

シエルは自分の椅子に腰掛け、は片付けたてのデスクにもたれかかりました。 聞けば、は今日とある知り合いから招待を受け、ティーパーティーに参加していたそうです。 多くの人が集い、立派なガーデンは凝った飾りで彩られ、紅茶の香りに満ちた会場は幸福の色をしていました。 夕暮れが近付き、そろそろお開きかと思われた頃、人の良さそうな老紳士に話しかけられます。

「前にも言ったが、普通の人間は私の姿をはっきりと見ることができない」

天使という生き物は、人間の目にはもやがかかったようにぼやけて映り、印象に残らないのです。 お互いに干渉せず、種族の領域を守るためにそうなっていると、以前に聞かされました。 だから普通はという存在に気付かないし、例え関わりを持ったとして、後から思い出すことすらできません。 シエルのようにはっきりと天使の姿を認めることができる人間は、とても珍しいのです。 話しかけてきた男は、シエルと同じようにの両の目を見つめることができました。 特別なほうの人間だったのです。

「今日は相手が悪かった。逃げるのに手間取ったよ。あれは常習犯に違いない」
「どういう意味だ」
「人さらいだよ。君にも縁遠い話ではないだろう」

人さらい。シエルの脳裏に、己を駒鳥と呼んだ男の存在が浮かびます。シエルはまさかとその名を口にしました。

「ドルイット絡みじゃないだろうな」
「確かに招待してくれたのは彼だが…」
「お前、まだドルイットと続いていたのか」
「いいや、彼とはとっくに破談になったよ」

今回の招待は、公にもされなかった哀れな元フィアンセへの情けさ。 そう言って少し遠くを見つめた黄金色でしたが、すぐにシエルに視線を戻して続けます。

「話を戻すけれど、あれはおそらく白子狙いだったんだ」

白子、それは色素が欠乏したアルビノ個体を指す言葉です。 その遺伝子疾患に、先天性白皮症という名前が付くのは後の時代のこと。 確かに、の透き通るほどに白い肌と曇りのないプラチナブロンドは、白ヘビや白うさぎのそれに近いのかもしれません。 その男にははっきりと見えてしまったのでしょう、希少価値の高い商品が。

「呪術、儀式、観賞用にもよく映えるし、バラでも高値が付く。量産品と違って珍しいからね」

古ぼけたヴァイオリンケースを、が白い靴の爪先で蹴ります。 同じ種族を仲間と思わない。人間というのは酷く残虐で、恐ろしい生き物です。 互いに価値を付け合い、売り合い、一体何になるというのでしょう。 他人からの評価によって付けられた値札に、一体何の意味があるのでしょう。 は天使で、人間を正しい方へ導くことが使命とされていますが、時々人間のことが少しも理解できません。 導いても勝手に道を違えていくように作ったのは神の悪戯でしょうか。

「連れ込まれた地下室から逃げる途中で、何か拝借していこうと持って来たのがこれだよ」
「金にならないもので残念だったな」

は人間に紛れて生活しているため、お金への執着もそれなりにありますが、残念ながら今回は骨折り損。

「知らないが故に、神の使いを欺くとは」
「人間は愚かな生き物ですからね」

の言葉に返答したのは、天使と対極の存在、悪魔のセバスチャン。 穏やかな笑みは何者をも魅了してしまう不思議な力がありますが、腹の中は欲望で真っ黒です。 忠誠心などはほぼないに等しく、ただ己の美学と契約に従って動く、ある意味人間よりも分かりやすい生き物。 足音もなく降って湧いたかのような使用人に、シエルは眉を顰めます。

「セバスチャン、お前まで勝手に入って来るな」
「ノックをしたのに返事をなさらなかったものですから」

聞こえるようにノックをしなかったに違いない、とシエルは思いました。

「さて坊ちゃん、ご夕食のお時間です」
「おや、長居をしてしまったようだ」

気付けば濃紺のヴェールは完全に空を覆い、宝石のような星を散りばめています。 は足元のヴァイオリンケースを拾い上げました。

「弾くのか?」
「いや。捨てるよ」

ではまたな、ファントムハイヴ。お元気で。 はそう言い残して、入ってきた窓から飛び降りると、広がる夜の世界へ消えてゆきました。 後には、が逃げ回った名残である靴底の泥が、絨毯の上に残されました。

「屋敷の守りをもう少し固めるべきかもしれませんね」

セバスチャンが窓を閉めながらそう言いました。

「人外の侵入は元々想定外だ」

シエルは再び大きな深い溜息を吐き、冷めきったティーカップを手に取ります。 しかしその表面に、おんぼろが撒いた埃が浮いていることに気付き、口にせずソーサーへ戻しました。 あの古ぼけたヴァイオリンは、誰がどれほど愛したものなのでしょうか。 捕らわれた可哀想な誰かの持ち物だったのでしょうか。 ほんの少し気になりましたが、シエルにとっては取るに足らないことだったので、すぐに忘れてしまいました。


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