秘密なら墓場まで
綿菓子みたいな雲を浮かべた、穏やかな午後のことです。
街から離れた郊外に建つ大きな屋根の立派なお屋敷。そう、ここはファントムハイヴ家のマナーハウス。
お屋敷の主であるシエル・ファントムハイヴ伯爵は、心地よい風が吹くテラスでティータイムを過ごしていました。
「本日は北東インドより、最上級のアッサム・ゴールデンチップスをご用意致しました」
「香りが強いな」
「ミルクに負けない芳醇な香りが特徴の茶葉でございます」
「それでスコーンか」
ミルクティーとスコーンは英国では定番の組み合わせ。
普段はストレートばかりのシエルも、勧められたとあればティーカップにミルクを足して、また一口味わいます。
豊かな香りとミルクのまろやかさが心まで満たすようです。
セバスチャン特製のクロテッドクリームと、採れたての苺を煮詰めたジャムで頂きます。
「坊ちゃんへお手紙が届いておりますよ」
さんから。
まさにミルクのような柔らかな白に身を包んだ天使、それがです。
人間の文化の中で最も素晴らしい、と手紙を好むは、時折こうしてシエルにも送ってくるのですが、
残念ながら英語は得意ではないようで、いつもあちこち綴りが間違っています。
セバスチャンはナイフで封を切ってシエルへ差し出し、受け取ったシエルはすぐに本文に目を通しました。
" 親愛なる ファントムハイヴ白爵へ "
「一体いつになったら、伯爵と正しく書けるようになるんだ」
最初から思い切り間違っている手紙に、シエルは溜息を吐きました。
これがもしビジネスだったら、大口の契約もこの一文でおしまいになっていたことでしょう。
めげずに読み進めますと、先週から新しい仕事に就いたことが記されていました。
は大変な変わり者で、天使のくせに人間に紛れて生活していますが、
そのためには人間が生み出したお金の仕組みに則らなければなりません。
ですからは仕事をしながら、それもあらゆる職業を片っ端からつまみ食いするようにして暮らしているのです。
「今度は菓子工房ですか」
気付けばセバスチャンの顔が真横にあり、シエルは慌てて手紙を伏せました。
「おい、覗くな!」
「これはこれは、失礼致しました」
セバスチャンは微笑んで、心のこもっていない謝罪を口にします。明らかに主の機嫌を損ねてしまってもおかまいなしです。
シエルが咳払いをひとつ落として再び手紙を開くと、セバスチャンはその背後から悪魔的な視力で内容を盗み見ることにしました。
さて、そういえば少し前にが博物館の警備の仕事を始めたと聞いたような気がしましたが、
あの変わり者ときたら転職の間隔があまりにも短いものですから、それがどのくらい前のことだったかは忘れてしまいました。
ともかく新しい職場は菓子工房。しかしここで疑問がひとつ。
「天使には人間の味覚が分かるのか?」
「さあ、どうでしょうか」
セバスチャンが人間を真似て最初に作った料理は、見た目は一流、味は三流以下。
しょっぱくて脂っぽくてぬるくて固くて、とても食べられたものではありませんでした。
聞けば、悪魔には人間の味覚が分からないというではありませんか。
ではは、天使はどうなのでしょうか。
天使は魂を食らう生き物ではないはずですが、セバスチャンは真知以外の天使と出会ったことがありませんでした。
人間のように動物図鑑を作る人もいませんので、詳しいことは何も知りません。
ただは他の生命の香りを、魂の芯から滲ませているのです。
例えば猫、馬、狼、それに人間も。鼻腔を悪魔的にくすぐる、ちょっと美味しそうな匂い。
「ですが、以前お出しした紅茶について、感想を述べられていましたよ」
「そうか」
「美味しい、とはおっしゃられませんでしたが」
シエルはスコーンを手に取って真ん中で割くと、たっぷりクリームをまぶし、更に苺のジャムを乗せてひと齧り。
香ばしい香りに濃厚なクリームと酸味が合わさって、まさに至高の味わいです。
完璧な執事が作るお菓子はどんな天気でも、どんな材料でも、驚くほどに均一な仕上がり。
遊びが足りない気がする。
しばらく宙を見つめて咀嚼していたシエルでしたが、ミルクティーを残り一口まで飲んだところで口を開きました。
「味の分かるとお前、どちらが上手か確かめたくなった」
「素直にさんのお菓子が食べたい、とおっしゃってはいかがです?」
シエルはフン、と鼻を鳴らします。
「残念ながら、本日はこの後も予定が詰まっていますよ」
「誰が行くと言った?」
お前が行け。わがままな主を持つと、使用人は苦労するものです。
セバスチャンは変わらぬ笑顔の裏に怒りを忍ばせながら、急いでアフタヌーンティーの後片付けを済ませると、
ロンドンまで足を延ばしていました。
テラスで見上げた綿雲はどこへやら、都会の空はまるで美味しくなさそうな灰色の雲で覆われています。
が勤めるのはよく名の知れた大通り沿いのお店で、緑に金字の看板と、ガラスケースに並ぶお菓子の模型が目印です。
セバスチャンはカラメルソースの色をしたドアの前まで来て、嵌め込まれたガラス越しにの姿を見つけます。
プラチナブロンドは以前よりも長く伸び、後頭部で一つに束ねられ、コックコートの白と相まって清潔な印象です。
金のノブを回して押し開けると、軽やかなベルの音が店内に響き渡りました。
「いらっしゃいませ」
「ご無沙汰しております、さん」
店内に充満する小麦とバターの香り。
美味しいかどうかはさておき、セバスチャンにも香りの違いくらいは分かります。
店内には誰もおらず、セバスチャンと目が合うと、は黄金色の瞳を細めて美しく笑いました。
「人間じゃないのが来たとは思ったが、まさか悪魔だったとは」
「どうぞセバスチャンとお呼びください」
穏やかな笑みはこれまで数々のレディを虜にしてきた一級品ですが、にはひとつも響いた様子がありません。
不意に心底おかしそうに笑い声を上げると、名前の由来を尋ねるのです。
「坊ちゃんに戴きましたよ。確か…犬の名前だとか」
「ならば偶然か。悪魔にエクソシストの名前、ファントムハイヴもセンスがいい」
はもう一度小さく笑って、ポケットからペンを取り出すと伝票の一番上に名前を書きました。
セバスチャン・ミカエリス。残念ながら綴りは大間違いです。
「どうせ主人の我儘だろう。使用人も大変だな」
「ええ。夕食後に最適なデザートを頂きたく」
はショーケースのお菓子たちを眺め、視線を彷徨わせた後、ひとつを指差しました。
砂糖で煮込まれたりんごはつやつやと輝き、見るからに歯ごたえのよさそうなパイに包まれています。
「アップルパイはお好きかな。私が作ったんだ」
「では、そちらをあるだけ頂きましょう」
伝票に注文をメモすると、はトレーにパイを乗せました。見た目よりずっしりとしているようです。
冷めていても美味しいけれど、もし温めるならオーブンでほんの少しだけ。焦げやすいから目を離さないように。
てきぱきと手際よく箱にパイを詰めながら、歌うような言葉。素質があったのでしょうか、その姿はすっかり菓子職人です。
「なぜパティシエに?」
セバスチャンは代金を支払いながら尋ねました。
窓から差す傾き始めた陽光が、の白い頬を照らし出します。
「皆、お菓子が好きだろう。人気者に憧れてね」
「しかし人間の好む味を再現するのは、骨が折れることでしょう」
「そうか、君には分からないんだったな」
「ということは、さんはお分かりに?」
箱にシールで封をする手が、一瞬止まりました。
煮込まれたりんごのようにつやめく瞳が、セバスチャンの紅茶色と交わります。
「この舌は」
大きく口を開け、下品な仕草で覗かせた赤い舌。
「人間のものだからな」
すぐに口を閉じ、箱をセバスチャンの方へ押し出します。
セバスチャンはそれを受け取って、小麦とバターの匂いに混ざる、特有の香りを吸い込みました。
の魂から立ち上る、他の生き物から奪い取った、生命の香り。
「ファントムハイヴによろしく」
「ええ。失礼致します」
カラメル色のドアがベルの音と共に閉まり、セバスチャンに別れを告げます。
濁った雲の隙間から覗いた陽光が、夜にはロンドンも晴れることを知らせているよう。
その眩しさは、の舌の中央に飾られた金の煌めきに似ていて、セバスチャンは野蛮な美しさを想いながら帰路に就いたのでした。