それでも神を信じるか

とある暖かな正午の事です。 幼き伯爵、シエル・ファントムハイヴは、執事のセバスチャンを連れて海沿いの倉庫街を歩いていました。 "女王の番犬"に舞い込んできた仕事の手掛かりを集めるべく、朝から人を尋ねて回っていたのです。 どれだけ偉大な命を背負っていようと、シエルはまだまだ子供。 踵の高い靴で歩き続けた足取りに疲労の色が見えています。 セバスチャンは一度お屋敷へ戻ることを提案しようとしましたが、思うところがあり開きかけた口を閉じました。

「どうした」

セバスチャンの一瞬のためらいに気付いたシエルが訝しんで尋ねます。 対するセバスチャンは、にっこりと笑みを深めて言いました。

「少々遠回りになりますが、道を変えられたほうがよろしいかと」
「理由は」
「通り雨の気配がいたします」

通り雨、と空を仰いだシエルは、澄んだ青にぽつぽつと浮かぶ薄い雲を見て首を傾げます。 その間、わずか数秒。 青空に白煙が吹きあがるのと同時に、聞き覚えのある声が降ってきました。

「セバスちゃあ~~~ん!」

それを生物だと認識するよりも早く、セバスチャンはシエルを抱き上げて脇に飛び退きます。 大きな音を立てて散っていく、破壊された屋根と壁だったもの。 何と悲しいことでしょう。"通り雨"に追いつかれてしまいました。

「もう少し丁寧に運べないのか」
「申し訳ございません」

不機嫌そうにずれた帽子のつばを押し上げるシエル。その視界に着地したのは、地味な風景を彩る極彩色の赤。 通り雨の正体は、シエルの叔母を殺した死神、グレル・サトクリフです。 ジャック・ザ・リッパー事件の終焉からしばらく経った今でも、時折下手な模倣犯が現れては新聞を飾っていますから、 本物が再来したとなればビッグニュース間違いなしです。 随分嬉しそうなグレルとは対照的に、事件の真相を知るただひとりの人間であるシエルは、心底嫌な顔をしました。

「こんなところでまた会えるなんて、アタシたちやっぱり運命で結ばれてるのかしら!」
「勝手に結ばないでいただけますか、ただの偶然です」
「キャッ、そんな冷たいところもステキ!」

目には見えずとも気味が悪いハートマークを感じたセバスチャンが顔をしかめています。 建物ひとつを破壊しながら現れ、砂埃で塗れた親類の仇にシエルが尋ねます。

「お前、一体ここで何をしている?」
「おま…ッ?アンタねえ、礼儀がなってないわよ!サマをつけなさい」
「誰が呼ぶか」
「むかつく…セバスチャン抜きだったら今頃殺してたわね…」

グレルが眉を吊り上げ、手袋をつけた両手が空を掻いたとき、一同は初めて彼(彼女)がデスサイズを持っていないことに気が付きました。 そういえば、と呆けた表情をしていると、軽やかな足音が頭上を駆け、グレルの背後に舞い降りる純白の影。 まるで光の玉のようなそれは、足を振り上げるとグレルの背中を思い切り蹴りました。 勢い余って地を滑り、倉庫の青いドアにぶつかって目を回すグレル。 白の人は手にした件のチェーンソーを、とどめとばかりにグレル目がけて放り投げます。 金属製のドアにぶつかって火花を上げる刃。寸でのところでかわしたグレルは涙目で訴えます。

「ちょっと!危ないじゃないの!」

持ち主なのに、危うく真っ二つになってしまうところでした。

「忘れ物を届けて差し上げたのに、心外だな」

蜂蜜を溶かしたミルクのような美しいプラチナブロンド、真っ白なシルクのブラウス。 今日は少々、いえかなり、砂埃と土煙で薄汚れているようですが、漂う気配はこの場にいるどの生き物とも違います。 人間でも、悪魔でも、死神でもない生き物。 天使の、通り雨の片割れです。 まさかこんな寂れた倉庫街で、天使と悪魔と死神の絵画みたいな夢の共演が見られるとは。 しかしどうしてシエルはちっとも嬉しくありません。

、お前の仕業か」
「お久しぶり、ファントムハイヴ」
「なあに?アンタたち、知り合いなの?」
「友人だな」

シエルは友人という言葉の響きにくすぐったさを覚えました。 知り合いと言うにはほど近く、家族というにはほど遠い。 セバスチャンも当人のシエルも、との関係に付ける名前を思いつかないままでいましたが、 つまりは種族の垣根を超え、どうでもよくない相手であるということです。

「アンタも人間に肩入れする物好きなのね」
「そう、君と同じだよ」

がグレルのコートのリボンをつまみ、鼻を寄せます。 人間の匂いを引きずっているよ、とが言うと、グレルはリボンをひったくり、触らないでと小さく呟きました。

「それで、人間以外の生き物が、人間の街で、一体何をなさっていたのです?」

セバスチャンはシエルの質問を繰り返しました。

「喧嘩、としか言い様がないわね」
「くだらないな」
「うるさいわね、人間だってしょうもないことで戦争してんじゃない」
「やれやれ、君が喋ると話がこじれるな」
「ハァ?」

が溜息交じりに言うと、グレルがを睨みつけ、途端に見えない炎が二人の間に燃え上がります。 つまり、何かのはずみで口喧嘩は暴力に発展し、人間の街で大暴れ。 建物を巻き込んで破壊しながら転がり回った末に、シエルとセバスチャンにばったり遭遇、というわけです。 事のいきさつはわかったものの、本来争いごとは好まない天使がこの剣幕、原因は何なのでしょう。

「さっきもそうだったろう。余計なことは言わずに白にしておけばよかったんだ」
「アンタっていつもそう!人のこだわりを余計だのなんだの…異種族間にも礼儀ありって言葉、知らないワケ?」
「セバスチャン」
「ええ、もちろん初耳です」

さらりと慣用句を捏造したグレルはに指を突きつけ、さらに捲し立てます。

「赤は情熱の色よ!何物にも負けない、染まらない、絶対的な色、どっちが良いかなんて分かりきってるでしょ!」
「人々は白の美しさをよく知っている。街並みをごらんよ、赤と白どちらが多いか一目で分かるさ」
「街並みィ?土の上だと負けるからって、ちょっと比べるとこおかしいんじゃないの」
「なら花壇で勝負するかい?丁度いい、ファントムハイヴ邸にお邪魔しようじゃないか」
「ちょっと待て、僕を巻き込むな!」

唐突に名前を出されたシエルが驚いて声を上げますが、真知ときたら、こちらを見もせずに制止のポーズです。 邪魔をするなと言わんばかりに目の前に手のひらを立てられたシエルは、介入を早々に諦めました。

「とにかく花と言ったら白、バラも白だ!」
「赤、赤、赤!バラと言ったら赤!」

なんだそれは。シエルは溜息のためだけに大きく息を吸い、そして吐きました。 こんなくだらない喧嘩に巻き込まれている自分が哀れにすら思えます。 赤でも白でもバラはバラ、ただの花ですから。

「セバスチャン、止めさせろ」
「おや、よろしいのですか。どちらかの色が消える世紀の瞬間かもしれませんよ」
「お前までくだらないことを言うな。早く止めさせろ」
「イエス・マイロード」

セバスチャンが投げた銀のフォークがグレルに向かって飛んでいきます。 が、同時にがどこかの積まれた木箱のひとつをグレルに投げつけたので、衝撃でグレルはフォークごと吹き飛ばされてしまいました。 神様がいるとするならば、はきっととんでもないお叱りを受けるでしょう。 武器を持たないの懐にグレルが突っ込んでいきます。 間に割って入りを跳ね除けたのは命令を受けたセバスチャン。 はひっくり返って地面を滑り、ずいぶん間抜けな姿勢で止まりました。 一方で勢いがついたグレルは急には止まれず、セバスチャンの胸目掛けて飛び込んでいきます。 これ幸いと両腕を広げたグレルでしたが、寸でのところでセバスチャンが避けたので、グレルは地面と熱烈なキスをしました。

「痛ぁい!セバスちゃん、乙女の抱擁は受け止めるものよ」
「死んでも御免です」

セバスチャンが身震いすると、起き上がったが、打ち付けた鼻を赤くしたグレルに嫌味を言います。

「よかったじゃないかサトクリフ、さっきよりも美人だぞ」
「今アンタには話しかけてないわよ!」

グレルはデスサイズを固く握り、刃を唸らせ威嚇します。 は身軽な上に頭が良いので、そのうちまた武器を奪われ今度こそ真っ二つにされてしまうかも。 そうならないうちに、一撃でとどめを刺そうという算段です。 さすがのグレルも天使を切ったことはありませんので、本当に仕留められるかは分かりませんが。 やる気満々のグレルの一方で、なんとはどうやら戦意を失った様子。

「もう飽きてしまったよ。仕事に戻ろうサトクリフ」

爪でも欠けたのか、座り込んだまま己の指先を見つめて酷くつまらない顔をしています。

「アンタって本ッ当に身勝手よね!腹立つわァ!」

グレルは怒って地団太を踏みます。 今度はセバスチャンが呆れる番です。勝手に始めて勝手に終わり、巻き込まれた方の身にもなってほしいと心から思いました。 小さな主にご意見を伺います。

「坊ちゃん、いかがなさいますか」
「…さっさと帰るぞ」
「ファントムハイヴ、会えて嬉しかったよ」
「二度と巻き込まないでくれ。修繕費を立て替えてやる義理はない」

は立ち上がり、申し訳程度にお尻をはたきながら、シエルに別れの言葉をかけました。 辺りには崩れた屋根の木くずや、踏み壊したレンガのかけら、抉れた地面にばらばらに壊れた木箱の残骸など、 ありとあらゆる喧嘩の痕跡が残されています。 休日の倉庫街、人気が少ないとはいえこれだけ暴れれば誰かしらが駆け付けてきてもおかしくありません。 逃げ足の速い人外たちの代わりに諸々のお金を請求されるのは間違いなくシエル。最悪です。 撤退は素早いが吉。踵を返すシエルと続くセバスチャンに対し、どうにか怒りを抑え武器を下ろしたグレルが投げキス。

「次は二人っきりで会いましょうね、セバスちゃん」
「お断りします」

セバスチャンは笑みを湛えたまま、飛んでくるキスを避けました。

「ではまた、ファントムハイヴ。お元気で」

は傷の残る倉庫の壁のわずかなでっぱりに足を掛けると、軽やかに屋根へと飛び上がります。 その後を追ったグレルと共に、遠く離れて姿を消しました。二人で仕事だなんて、内容が気になるような、ならないような。 良いお天気の、麗らかな正午のことでした。


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