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単独任務を無傷で終えた一匹猪・伊之助の、気ままで気楽な一人旅。
緩やかな勾配の山道をてくてくと歩いて帰る途中で、なんとなくそちらに行くべきだと感じて道を逸れた。
草木の青さ、獣の荒々しさ、匂いと気配の中を進むと、別の道にひょいと出た。
坂を下って行くと、少しうねった道の先に、伊之助にとっては見慣れない洋風の館が建っていた。
野生的第六感に誘われるままこちらへ来たが、お見事、あの館からは鬼の気配がする。
伊之助は鼻を鳴らして猪突猛進!と駆け出した。熟考よりも突撃派である。
刈り込まれた垣根を飛び越え、敷地をぐるっと回り込んだ裏手にて、まず視界に飛び込んだのは串刺しにされた鬼だった。
若い男だ。動転して冷静さを欠いている。
次に人間の女。手にした日傘で鬼に日陰を作っている。
伊之助は猪突猛進!と日輪刀を構えて飛んだ。
鬼の大きな瞳がさらに開かれる。
「やめろ!」
女は叫んだが、ぎざぎざとした野蛮な刃はすでに鬼の首を飛ばしていた。
女の日陰から飛び出した首が悲鳴と共にちりとなって消えて行く。
残った身体までもが崩れて行くのを見、地面に散った鬼の血を見、猪頭の上半裸を見、女は深く溜め息を吐いた。
女はこういうとき悲鳴を上げるのだ、と思っていた伊之助は拍子抜けした。
女は日傘を自分のほうへ傾け、すました顔で言った。
「おまえ、警察呼ぶぞ」
「助けてやったのになんだ!礼を言え!」
伊之助はまるで動じない女の態度に驚き、驚きのあまりぎざぎざ刃の切先を女に向けるなどした。
ちなみに警察がなんたるかはよく分かっていなかったが、政府非公認組織の一員として、関わると面倒だということは知っていた。
「頼んでもないのに、勝手に殺すな」
確かにそうだ、助けてくれとは言われていないが、普通の人間にとって鬼は脅威。
あのまま放っておけば女は喰われていた。
いや、本当にそうか?脅えていたのは鬼の方ではなかったか?
女はつんと冷ややかに伊之助を見ていた。
あまりに眼光が鋭かったので、伊之助は怒っているときの胡蝶しのぶを思い出して身震いした。
あれは怖いのだ。
そうしている間に女はくるりと踵を返し、ガラスが何枚もはめ込まれた大きな扉から部屋の中へと戻っていった。
誘われるように伊之助も女の後について部屋に入り、
すぐ正面の机の上、水が張られた平たい皿に藤の花が房のまま活けられているのを見た。
鬼殺隊に縁深い薄紫のそれではなく、花弁が真白で、芳しい香りを放っている。
まるで香炉をすぐそばで炊いているかのようだ。
「それは麝香藤、香りが良い」
女は勝手に入って来た伊之助を咎めることなく、これまた香りの強い茶を淹れ始めた。
野生の嗅覚には少々刺激が強く、伊之助は鼻を押さえた。
周囲を見渡すと藤以外にもかなり多くの植物が置かれており、まるで小さな森だった。
花の芳香と湿った土、抜けてきた獣道とは全然違う匂いがする。
開いたままだった観音開きのガラス扉を女が閉める。
鬼を地面に縫い止めていた槍が数本、ガラスに透けて歪んで見えた。
「"あれ"は夜中の内に庭に来ていた。気付いたのは夜明け前」
女は、頼んでもいないのに鬼を殺した伊之助に、頼んでもいないのに事の経緯を話し始めた。
机の脇に立ったままの伊之助は全く気に留めず、女はカップを持って椅子に座り、香茶に息を吹きかけ口を付けた。
琥珀色が女の唇に吸い込まれて行くのをじっと見た。
「私を見るや、こちらに向かって来ようとしたんだが、ちょうどあのあたりで」
女はガラスの向こう、槍と血痕を指した。
「足を止めた」
伊之助を丸く鋭い瞳が射抜いた。視線はすぐに逸れ、目の前の花に注がれる。
「おまえと同じように鼻を押さえていたから、試しに花を摘んで外に出たら一歩退いた」
女は麝香藤の花弁を千切った。
「そのまま逃げようとしたものだから、この杭を投げて仕留めた」
部屋の隅に、同じ物が立て掛けてある。槍ではなく杭だったらしい。
金属製のそれは女が持つには重そうに見えたので、伊之助は問い返した。
「その細腕で?」
「庭仕事用だ、そう重いものじゃない」
投てきであれほど深く突き刺すには相当な腕力が必要なはずだ。
しかも複数本投げている。
この体のどこにそんな力が、まさか強いのか?
伊之助は人を図る物差しを一本しか持ち合わせていない。
強いか、否かだ。
「串刺しになってもまだ生きているから驚いた」
「あれは鬼だ。串刺しぐらいじゃ何ともねえ」
「鬼」
「そうだ。日光を浴びせるか、この日輪刀で」
二本の獲物がじゃぎ、と物騒な音を立てた。
「首を切れば」
「死ぬ。それが鬼か、へえ、そう」
伊之助の言葉を受けて女は近くの棚から紙とペンを取り、何やら記した。
興味をそそる内容だったのか、一瞬瞳が輝いた。
伊之助は字が読めないので何を書いているかは分からない。
女は書きながら続きを話した。
「日が昇れば死ぬとうるさいから日傘で陰を作ってやったのに、近付くと引っ掻く。お陰でこのざまよ」
ペンを置くと伊之助に見えるよう姿勢を変え、スカートを持ち上げてふくらはぎを見せた。
ざっくりと開いた傷、血で染まった靴下と婦人靴。
麝香藤と香茶のせいで血の匂いに気が付かなかった。
大怪我も慣れっこの鬼殺隊士ならまだしも、なぜこの女はこんなに冷静なんだ?
伊之助は刀を板張りの床に刺して両手を空け、巾着から包帯と傷薬を出した。
胡蝶から受け取った物だ。
「おい、床を傷付けるな」
女は不機嫌な顔をした。当たり前である。
しかし伊之助は"怪我人を助ける"という覚えたばかりの優しさが先行して、他の迷惑は気にも留めない。
「うっせえ、怪我してんなら早く言いやがれ」
伊之助は女の足をむんずと掴んで引き寄せた。
すると女は思っていた以上に軽かった。
体勢を崩した女が椅子から転がり落ちて、あ、しまった。
伊之助は女の体を抱き止めて床に転がった。
「痛い…」
女は伊之助の腕の中で心底不機嫌な声を上げた。何せ猪の鼻が頬に押し付けられている。
女は猪の鼻をぐいと押したが、下から上へ力を込めたので猪頭はすっぽりと抜けてしまった。
伊之助は逞しい体つきとは対照的に、母親に良く似た可憐な顔立ちをしていて、目の当たりにした女は目を丸くして固まった。
一方で伊之助は女を床に組み敷いている状況に、眠っていた怪物が腹の底で首をもたげたような、妙な違和感を覚えた。
「近い!」
先に我に返ったのは女だった。
女が一際大きな声を上げたので、伊之助はぶんぶんと頭を振って思考を整えた。
今のはなんだ?腹をさするがなんともない。
身体を起こし女の足を再度掴んで見る。
鬼の爪による傷が四本。血は止まったようだが凝固しておらず表面は潤んでいる。
「痛いのか」
「おまえが掴んでるのが何より痛い」
女はそろりと立ち上がり、椅子に座り直した。
冷静さを取り戻した伊之助は女の足元で陶製の容器を開け、中の塗り薬を傷に塗った。
ごしごし擦ってはいけませんよ、と胡蝶の声を反芻し、なるだけ優しく優しく塗った。
少し力を込めるだけで伊之助の指が食い込む柔らかな皮膚。
こんなに筋肉が少なくて、よく鬼を捕らえられたものだ。
包帯を巻く際、少し視線を上げるとスカートの中が見えた。
丸みを帯びた膝の奥、ふっくらとした太もも、臀部の肉付きが下着の薄い布地に透けている。
たまらず目を背け、そこで顔を露出していることを思い出した。
妙な心地がするのは感覚が過敏になっているせいに違いない。
視線を巡らせると山の主は机の上、藤の隣にいた。
伊之助が傷をどうにかしている間に、女は床に転げた主を拾ってそこに置いたらしい。
手に取って被ると、藤と香茶が伊之助を包んだ。
近くに置いたために匂いが移っている。
強い香り、慣れない香り、それは酒に似た効果をもたらしていた。
つまり伊之助は酔っ払っていた。思考はふわふわと漂い、理性が家出をして本能が際立つ。
「うう」
「は」
主にこびり付いた匂いの塊を吸い込んだら、酒を思い切り煽ったのと同じように、ついに意識が飛んだ。
立ったままぐらりと傾いた身体、女は驚くがもう遅く、がたんと激しい物音と共に椅子が倒れ、
二人は本日二度目の床との対面を果たしたのであった。