馬と骨
かつて人斬り抜刀斎として名を馳せた男、名前を緋村剣心。
彼が東京に辿り着き、神谷薫と出会う少し前、まだ各地を流れ旅していた頃の話だ。
次の町に行くには山を越えねばならず、人里離れたそこへ分け入ったはいいが、道を見失ってしまったことがあった。
まだ道路の整備や舗装も進まぬ明治初頭、踏み固められただけの土道は草木に覆われればすぐ消えてしまう。
地図も意味を成さない場所で、水の音だけを頼りに進むと、やがて川に辿り着いた。
川沿いを下ってゆけばやがて里へ降りられるだろう。
少し安堵した途端、喉の渇きを覚えた剣心は、水を飲むため苔た岩を降りた。
手持ちの水筒も空になっていることだ、野営に備えて少し汲んでから行こう。
「そこの方」
「…おろ?」
初動が遅れたのは、川のせせらぎのせいか、生い茂る草のせいか、それとも。
「その水は飲まぬほうが良い」
剣心はしゃがみ込み、水面に手を差し入れた間抜けな格好のまま、声のした方を見た。
対岸にいたのは馬の背に乗った行商人だった。
「近くの鉱山で出た廃液を流していた川だ。飲まぬほうが良い」
濃緑一辺倒の景色に、ぽつり、彩が添えられたよう。
馬は堂々としており、主人もまたどこか目を引く顔立ちだった。
有毒物を含んだ水は体を蝕む。
見かけは綺麗だがこの川には、虫も魚も寄り付かない。
言いながら何かをこちらへ投げよこす。
剣心が両手で受け止めると、木筒は中身を鳴らした。
「水が必要ならそれを。心配ならこの馬に毒味をさせよう」
「…いや、かたじけない」
中の水を慎重に手に掬って口元へ運んだ。
異臭はなく、色も味も普通だったが、念の為一口だけにしておいた。
再び行商人を見る。
紫の着物があやめのようでありながら、袖の形や襟の色合わせにどこか異国のものを感じさせた。
「山を下りるならば手を貸そう」
「いや、旅には慣れている。水のこと、教えて頂きありがとう」
「ここらは夜、野犬の群れが出るが、それも慣れておられるか」
その言葉で笑みを引きつらせた剣心は、行商人の誘いに甘えることにした。
行商人の指差した通り、少し先に心許ない橋が掛かっていた。
川を渡り、待っていた亜麻色の馬と行商人に一礼すると、馬も首でお辞儀をしたように見えた。
内心怪しんでいたが、行商人は酷く真っ直ぐな眼差しをしており、人を騙すのが見るからに下手そうだった。
「見ての通りの行商人だ。こっちは号」
「拙者は流浪人。返せるもののない身だが」
「構わぬ。号は人助けが好きなんだ」
「左様でござるか」
よろしく頼む、と呟きそっと立髪を撫ぜた。
号は温かな身体を擦り寄せた。
馬の背の、行商人の後ろに剣心がおさまると、手綱が引かれ号が歩き出した。
他者と触れ合う近距離での乗り心地は何とも言えぬが、野犬に齧られることと比べれば悪くないものだった。
行商人からは商売柄か、不思議な芳香がした。
「号は戦馬の血統なのに、足が短い個体でな」
号は荷物と人間二人を積んでいるにも関わらず、重さを感じさせぬ足取りで荒れた坂道を下っていった。
速さが出ないのは馬にとって致命的であるため、献上されず、ただ小屋に繋がれて死ぬのを待っていたという。
「号は商人殿に救われたでござるね」
「蹄のおかげで雪道も泥道も行ける。救われたのはこちらのほうだ」
相槌を打つかのように、号が嘶いた。
乾いた木の実を転がすような特徴的な声で行商人が笑った。
「利口な子なんだ。お前を救ったのは俺だと言っている」
「おろ、雄馬でござったか。見目麗しいものだからてっきり女子かと」
「馬は皆美しい。駒と扱われるのが不憫でならぬ」
どこか俗世から一線引いたような口調だった。
話しながら行商人の後ろ姿を観察していた剣心は、右と左の半身で身体つきが大きく異なることに気付いた。
誰しも利き腕によって多少の差はあれど、ここまで顕著なのは珍しい。
「おおっと」
不意に号が前足を折ったので、背に乗った二人は大きく揺らいだ。
頭上の柳が二人の顔を叩こうとするのを避けるため、利口な号の親切心であったが、行商人は大きく重心を崩した。
剣心が思わず後ろから支えると、右袖から力ない腕がぷらりと垂れ下がった。
「大丈夫でござるか」
「すまない」
行商人は手慣れた様子で体勢を立て直し、左手で袖と襟を正して右腕を仕舞う。
どうやら右腕は少しも動かぬらしかった。
特有の柔らかい肉質、手に残った感覚に、剣心は気まずさを覚えた。
「毛を引っ張ってしまったね」
体が揺らいだ拍子に号の立髪を掴んだらしかった。
行商人は申し訳なさそうに毛並みに沿って撫ぜた。
号は何事もなかったかのように進んで行った。
すずめの尻尾のような髪、張りのある肩幅、渋みを帯びた声。
当たり前のように同性だと思っていたが、剣心の勘も鈍ったものだ。
「女子ひとりの旅では不便も多いでござろう」
「生まれつきの男顔でな、女と悟られず済む」
確かに、精悍な顔立ちであった。
剣心の方がよっぽど女子の丸みを持っていた。
しばし沈黙が降りた。
深い森は、やがて竹林へと姿を変え、葉のそよぎは一層やかましく騒ぎ立てた。
道は徐々になだらかになり、蹄が地面を打つ音が均等になると、行商人の手綱ひとつで号はゆっくりと速度を上げた。
間も無く山と森は背後へ過ぎ去り、穏やかな田畑が姿を見せた。
上を見れば、青空を背にからすが旋回していた。
「別れが近いな。何か言い残すことはあるか?」
「…拙者を殺す気でござるか」
少々物騒な物言いに剣心が呟くと、また木の実が転がる声を立てた。
行商人が足で号の胴をしっかりと挟み込むと、手綱を引かずとも号は道を違えず進んでいった。
空いた左手で積荷の金具を外し中を探ると、剣心の方を見遣った。
「この風車、餞別に差し上げよう」
「おろ」
緋色の羽は、行商人がふうと息を吹きかけると、力なく回った。
差し出された小振りのそれを、剣心はそっと受け取り眺めた。
その羽には薄っすらと彫りが入っていて、日に透かすと何かの模様が見えた。
「持ち主の気持ちが大きく動くと心に風が吹く。この風車は心に吹いた風で回る」
凍て付いた雪が溶け、川になり、芽吹いた田畑を満たすように、心もいつか解ける。
動乱の世で人を斬り、その血で固まったままの心を、ぬるま湯で拭うように。
「流るる中で良き出会いがあれば、よく回るだろう」
風車は、剣心の視線に気付いたかのように二回転して止まった。
田畑を過ぎると民家が見え始め、やがて小さな農村に入った。
剣心の次の目的地まであと少しだが、すでに日暮れが近いため、今晩は宿を取り休むことにした。
行商人はこのまま馬で村を過ぎ、先を急ぐと言うので、宿屋の前で立ち止まり別れの挨拶をした。
「商人殿、世話になった」
「恩を売るのも商売人の仕事だからな」
「はは、参ったでござるな」
行商人には片手で器用に馬の背に乗り、手綱を握ると、剣心に微笑み言った。
「では達者でな、緋村抜刀斎」
明治の世でも伝説と語られる名を呼び、号と名無しの行商人は駆けて行った。
風車の赤い羽は音もなく回り、透かし彫りを繋いで五弁の花を浮かび上がらせた。
濃緑の森、見えない毒を持つ水、あやめ色の商人、亜麻色の馬、赤い風車。
誰に語って聞かせたこともない、古い旅の一幕。